■ [大事なこと]学び合う能力を信じること
院生さんと個人ゼミをした際、学び合う能力に関して改めて書く必要性があることを感じました。何度も書いたことですが、再度書きます。
我々の研究室では、「学び合う能力は生まれつきの能力である」ことを基本前提としています。十歩下がっても、「学び合う能力は学校教育のような組織的な学習を必須とはしていない」と考えています。その根拠としては二つです。第一は、ヒトは群れ、かつ言語というコミュニケーション手段を持っています。そのような種が、学び合う能力を生まれつきに持っていないならば、数百万年の生存競争の中で生き残れません。つまり、生まれつきの能力と考えない方が、生物学的に妥当性がありません。第二に、今まで色々の調査を行っていますが、その結果、ゴチャゴチャやらなくても子どもたちは学び合えることが明らかになっています。教師がやっているのは、学び合う能力を教えていると言うより、学び合う能力を邪魔しているように思えます。だから、ゴチャゴチャやらなくても、邪魔しなければ学び合えます。
ところが、世の圧倒的大多数の実践書の立場は、「学び合う能力は教えなければならない」という立場で書かれています。もっとも典型的な本として、ジョンソンさんたちの「学習の輪」という本です。この本には本文にも、また、本の帯にも「子どもたちは他の人々とうまくつきあう方法を生まれつき知っているわけではない」という趣旨を明示しています。内容はきわめて示唆に富むもので、良い本です。でも、上記の一点だけは納得できません。なぜ、ジョンソンさんたちはそのように考えたんだろう、と、本の隅から隅までよみましたが、その根拠が明示されていません。きっと、当たり前すぎるほど、当たり前と考えたんでしょう。
しかし、そのような前提で本が書かれているので、いくつか気になることがあります。たとえば、共同学習を成立するための19段階のステップを用意しています。これも、教えなければできないという前提に基づくものです。個々のステップが有効である可能性を否定しませんが、いくつかの問題点があるように思います。第一に、そんなに手間のかかることを多くの教師がやるとは思えません。しかし、そんなに手間のかかることをやる教師が皆無とはもうしません。我が国でも類書が出ています。しかし、そのような本で書かれている方法を本気でやった場合は、子どもたちが型に囚われ、形骸化したコミュニケーションになる危険性が多いと思います。おそらく、附属や研究指定校で「つけたしで~」という決まり文句が、話す子どもが全部使うクラスを見たことがあると思います。もちろん、そのような方法がきっかけになることは否定しません。剣道に守破離という言葉あります。つまり、守-形を守る段階(初心)、破-形を破る段階(達人)、離-形を離れる段階(名人)の段階で進むという教えです。しかし、「学習の輪」では「守」のみしか見ていないように思います。
また、教えなければ知らないという前提ですが、それもそうとうしっかりと教えないと分からないと思っている節があります。たとえば連帯報酬を設けたり、「グループの仕事に各メンバーの努力がどの程度貢献しているか査定する」などが有効としています。しかし、上記のことは、結局、「我々」という意識を筆者自身が信じることができないためのように思えます。本当は、「我々」という意識は、我々の本能の中に刻みつけられていて、上記のようなことは必要ないと思います。というより、上記のようなことをすると「我々」意識の形成を阻害するように思います。
繰り返しますが、我々は上記とは逆の前提にたっています。我々は、学び合う能力というヒトの基本的能力を、「たかが教師」が加えたり、引いたりすることは出来ないと思います。考えてみてください。子どもに歩かせ方を教えられる親がいるでしょうか?また、何らかの障害によって歩けなくなった大人のリハビリの時、おしえられる人がいるでしょうか?いると考えている人がいたとしたら、それは誤解だと思います。我々が出来るのは、当人がもともと持っている能力を表出させるきっかけを与えるにすぎません。せいぜい出来るのは、歩ける子どもに、走らせたり、スキップを教えたりする程度です。
逆に、「たかが教師」が学び合う能力というヒトの基本的能力を無力化できるでしょうか?「たかが教師」が出来るのは、学び合う能力が表出することを邪魔する程度です。「たかが教師」がどんなに邪魔してもその能力を無力化することは出来ません。 例えば鳥をかごに育てて大空を羽ばたくことを邪魔したとしても、鳥はその狭い中で一生懸命に飛びます。そして、一度かごから解き放ては、大空に羽ばたきます。鳥の飛ぶ能力とはそのようなものです。9年間の義務教育中一貫して 学び合いを邪魔しても、その中で可能な範囲内で子どもは学び会います。高校で担当教師が邪魔しなければ、あっという間に学び合いは表出すると考えています。 人の学び合う能力とはそのようなものです。
我々が目的としているのは、教えるテクニックではありません。教えなくても出来るという、子どもの有能性を信じる子ども観です。また、その有能性を開花させるには、ごちゃごちゃ教えるのではなく、目標を与え、納得させ、契約を結び、彼らがやりやすいような環境を整備するのが教師の役目であるという授業観です。さらに付け加えるならば、学校教育の根元的な目標は、他者とうまくやっていくというコミュニケーション能力を開花させることであり、教科学習はそのすばらしい場を与えているという目標観です。