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2008-04-26

[]”学び合い”と『学び合い』(学校観編) 18:51 ”学び合い”と『学び合い』(学校観編) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ”学び合い”と『学び合い』(学校観編) - 西川純のメモ ”学び合い”と『学び合い』(学校観編) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 最近、同志より以下のメールが来ました。

 『”学び合い”の授業を参観しました。普通の授業を見るよりもずっと楽しい時間でした。それでも根本的な考え方が全く違いました。このことを強く認識しました。”学び合い”の授業は、一斉授業の先にあります。つながっています。『学び合い』の授業は、一斉授業とは全く違う価値観の授業であることを再認識しました。あの程度の”学び合い”で、教師が驚くなら、『学び合い』が理解されない理由もよくわかりました。また参観する機会があるでしょうから、またご報告いたします。』

 ”学び合い”(現在、世に流布している学び合い)と一斉指導と『学び合い』を比べると、”学び合い”は圧倒的に一斉指導に近く、『学び合い』とは遙かに遠い存在です。学び合いというキーワードを使っていますが、全く異質です。”学び合い”は現在普通に行われている、一斉指導の「亜種」に過ぎません。先の同志が指摘するように、全く違う価値観に由来するからです。

 ”学び合い”と『学び合い』の違いを学校教育観のレベルで比較しましょう。

 まず、学校で学ぶべきものは「人格の完成」であることは、日本の学校で行われているのですから同じです。だって、教育基本法第1条に規定されていますから。ただ、人格の完成をどう捉えるかで大きな違いがあります。

一斉指導(そして、その亜種の”学び合い”)は人格を心と学力を分けて考えています。例えば、「3桁の足し算」は学力向上であり、心の育成を必ずしも意図したものでなくても良いと割り切れます。さらに、それが進めば「教科学習は学力向上、道徳や特別活動を心の育成」と割り切ります。その結果、教科学習では心の育成を必ずしも意図したものではなくても良いと割り切れます。そして、教科学習が学校教育の殆どの時間を占めているのです。

ところが、『学び合い』では人格を心と学力の分けられない総体だと考えています。それ故、「3桁の足し算」においても心の成長が無ければならないと思います。それでなければ「人格の完成」を目指した学校教育の中の算数ではないと考えます。逆に、道徳や学活の時間に、学力向上を意図しない心の育成をするのも「人格の完成」ではないと考えます。それ故、学校教育の殆どを占めている教科学習の時間こそ、「人格の完成」の場であると我々は考えます。

よく、「いつもいつも『学び合い』をしているのですか?」とか「全ての教科で『学び合い』をするのですか?」と聞かれます。でも、これは私にとっては愚問に過ぎません。我々が『学び合い』をしているのは「人格の完成」を目指しており、それは、全ての時間で行うべきものだからです。自分の能力不足で、学力向上に特化した時間、心の育成に特化した時間になってしまうことはあります。しかし、それに対してやましさを持つべきだと思います。だって、学校教育の時間は全て「人格の完成」につながるものであるのですから。やましさを持たないとしたら、どこかで「人格の完成」を心と学力に分けられると考えている証拠です。

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 子どもと言ったとき、また、クラスと言ったとき、何を意味しているかは一斉指導(そしてその亜種の”学び合い”)と『学び合い』では違います。一斉指導(そしてその亜種の”学び合い”)では、「子ども」とは一人、一人の子どもを意味し、「クラス」とは、その一人一人の子どもの集団を指します。一方、『学び合い』では、「子ども」は子ども「たち」を意味し、クラスも同様です。そして、個々人の子どもはブラックボックスで分かるわけ無いと考えます(というより考えるように努力します。http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20050418)。こう書くと『学び合い』は個々人を大事にしないように思われるかもしれませんが、それは違います。本当に個々人を大事にしたいと思うから、一人の教師がそれを背負うべきではないと考えるのです。『学び合い』から見れば一斉指導(そしてその亜種の”学び合い”)は、言葉では個を大事にすると言いつつ、その実、無意識に大多数の個人を無視し、それを自己合理化していると考えます。しょうがありません、小学生でも分かる計算で、一人の教師が数十人の子どもの個を把握し、対応することは出来ません。それが出来るのは、一話完結でハッピーエンドのテレビドラマだけのことです。と、言っても、現実には個々人が中途半端に見えてしまいます。そして、見えたことにとらわれて、中途半端に対応してしまいます。そうならないように、必死に上記の原則に立ち戻るのです。

 しかし、これが徹底していないと、様々な問題が生じます。一番の問題は、子どもが有能に見えなくなるんです。個々人を見れば、有能ではない子どももいます。『学び合い』では学び合う能力はDNAの中にあることを前提としています。だから、学び合い方を教えません。しかし、個々人を見れば、学び合う能力が著しく弱い子どももいます。さらに言えば、上記が徹底していないと、子ども集団の力は弱くなります。

 そうなると、色々なことをし始めます。まず、事細かに教え始めます。一斉指導の亜種である”学び合い”では、学び合い方を教え、学び合う人を教師が指定し、学び合う時を教師が指定します。子どもの能力や子どもの学習意欲が信じられないので、教材や指導法のひねりが必要だと考えます。結果として、教師が前面に立ち、自分自身にスポットライトを当てる現在の一斉指導(そしてその亜種の”学び合い”)の現在の姿があります。

 少なくとも、私は、何もひねりをせずに直裁に課題を求めるだけで、我がゼミが高い達成度を維持していることを誇ります。しかしながら、教材や話術などの小技を使い、集団ではなく個人をいじくることがあります。しかし、それは私の能力不足のためであると恥じます。けっして一斉指導(そしてその亜種の”学び合い”)のように誇ったり、それが必然であると主張することはありません。それは、今までの経験で、本当に子どもが能力が凄いことを確信しているからです。私にとっては、教材や話術などという小技が入り込む余地無く、子どもは有能です。