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2003-02-03

[]大学先生というお仕事 17:11 大学の先生というお仕事 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 大学の先生というお仕事 - 西川純のメモ 大学の先生というお仕事 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 院生さんと馬鹿話をしながら、どの学校段階に勤めたいか、という話が出ました。みなさん、小学校中学校高等学校先生方です。また、小学校中学校の両方を経験された方も少なくありません。それぞれの学校段階の苦労話が出ました。しかし、大学先生が羨ましいという結論になりかけたので、私は一生懸命弁明をしました。一生懸命に話したのは、上司とあわなかったら悲惨であることを説明しました。小学校中学校高校では、職場が合わなくても、数年たてば都道府県が異動先を見つけてくれます。でも、大学はそのように異動は出来ません。異動したい場合は自分自身で異動先を探さなければなりません。小さい市場ですので、ぴったりした異動先は希で、運によります。分かりやすい例で説明すると、全国に50程度の学校しかなく、本人が相手方との異動の交渉をしなければならない状況を想像してください。また、移動する先は他の都道府県となります。

 また、大学では同僚が評価者になります。例えば、小学校中学校高等学校では、自分を評価する人は校長(そして教育委員会)で同僚ではありません。でも、大学では同じように学生を指導している教授が評価します。日々の業務で利害関係がある人が評価者であるという大学という職場の状況はバラ色ではありません。分かりやすい例で説明すると、学年が一緒の気の合わない先輩教師が、自分の給料査定を行う状況を想像してください。一定の距離のある校長査定する方が、断然、気が楽です。

 でも、本当のところは言わずじまいでした。私の場合は、上司・先輩教師には滅茶苦茶に恵まれていました。しかし、それでも高校から大学に異動した最初の年は、ほぼ毎日、夜になると「なんで俺は大学に異動したのだろう」と悔やんで泣いていました。原因は、「教え子」を失ったためです。大学講義は週1回で半年が基本単位です。ところが、高校では週3、4回で1年が単位となります。さらに定時制高校では、持ち上がりが基本となります。授業を通して積み上げていくものは全く違います。積み上げることにより、成立する教え子との関係大学では成立し得ません。

 研究クリアーで魅力的です。現場のぐじゃぐじゃした状態の中では一服の清涼剤です。でも、大学において、それのみとなったとき、生き甲斐を感じることは出来ませんでした。そのため、ほぼ毎日、夜になると大学に異動したことを悔やんで泣きました。そのため、大学に異動することに関して、人に積極的に勧める気にはなれません。しかし、2年目になって、泣く頻度が減りました。3日に1回になり、1週間に1回になり、一月に1回になりました。3年目に泣くことは無くなりました。理由は、冷静に考えて、自分が高校の教師として続けられる能力はなかったことを、しぶしぶながら認めざるをえなかったことです。

 私は担任であることが辛かった。自分になついてくれる子ども、その子ども左手で撫でているにもかかわらず、右手で退学の手続きを進めている自分が嫌だった。子どもの家庭ことを知れば知るほど、どうしようもない人間の汚さを知ることがいやだった。結果として、あの当時の酒量は尋常ではなかった。私をかわいがってくれた先輩教師が、「西川君、君には嫁さんを紹介しないよ。長生きしそうにないから。」と真顔で言われたこともありました。おそらく大学に異動しなければ、肝硬変で死ぬか、ものすごく嫌な教師になっていたと思います。そう自覚することによって、「良き研究者」を目標にすることをしぶしぶ納得し、「良き教師」は諦めることにしました。そのことに1、2年かかりました。幸い、さらに数年がたつ頃に卒業研究を任されるようになり、さらに、助教授になると院生さんを含めた研究室を運営することが出来ます。結果として、2年間をかけて積み上げる関係を結ぶことが出来ます。それでだいぶ救われました。でも、それにしても大学教師なることによって失うものは少なくないと思います。

 大学の最大の機能は、大学教師を育てることにあります。例えば、理学部(おそらく他学部も)において、もっとも優秀な研究者を自身の後任にします。このことは大学人以外の方には意外なことかもしれませんが、大学人にとっては当然のことです。大学とは自己再生の機関なんです。ところが教員養成系大学は違います。その最大の目的は、教員養成系大学の教員を養成することではなく、教員を養成することです。このことは矛盾をはらんでいます。例えば、理学の教官は、理学の教官という自身の職業のすばらしさを自身の経験に基づき語り、優秀な学生さんを、その道に誘います。すばらしさを語る人が、実際にその職にあるのですから矛盾はありません。ところが、教員養成系大学教官が、その職業のすばらしさを自身の経験に基づき語り、優秀な学生さんを、その道に誘うことは目的に反することなんです。だから、後付の理屈かもしれませんが、私の状態は教員養成系大学教官の姿としては望ましいのだと思います。つまり、自身の挫折の経験に基づく教員への憧れを語り、教員への道に誘うということ。ただし、なれない人(私)が、なれる人(学生さん、院生さん)を教えるという矛盾は残りますが。

[]いち記念日 17:11 いち記念日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - いち記念日 - 西川純のメモ いち記念日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 息子が「1」を指して「いち」と言い出しました。「きいろ」も「きー」まで言えるようになりました。家内からメモしといてねと頼まれました。こうなったら、やけくそでメモるぞ~!