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2003-06-16

[]環境教育 15:25 環境教育 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 環境教育 - 西川純のメモ 環境教育 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先週の金曜日の授業で、環境教育に関して話しました。内容は、理科環境教育を教える場合、科学的知識を与え、正しい判断が出来事を目的としているが、それでは行動に結びつかないという、「学び合いの仕組みと不思議」で書いた内容です。環境教育で大事なのは、まず第一に、環境に優しい行動をしている人は多い、という意識を与えることであり、そのためには子どもたちの人間関係を利用した指導が大事だと思います。しかし、授業を受けた理科先生から、「先生のお話は分かりますが、理科で教えるとしたら理科の特徴である科学的知識を大事にしなければならないのでは?」という質問を受けました。それに対する、私の答えは以下の通りです。

  『まず、理科があるのではなく、学校教育があり、その下に理科があるとおもいます。それでは学校教育において大事なのは、常識規範を与えることと科学的知識を与えることのどちらでしょうか?原子炉事故隠しをやった人は理学博士の学位を持っている人も少なくなかったと思います。常識が無くて、科学的知識がある人と、科学的知識がなくて、常識がある人、どちらを育てたいですか?』

 その先生には理解をいただきました。なお、もう一つ付けくわえるならば、科学的知識をいくら与えても環境を大事にする学習者集団は育てられないが、環境を大事にする学習者集団が育てられれば、科学的知識はたやすく与えることが出来ます。

[]東大寺を作ったのは誰? 15:25 東大寺を作ったのは誰? - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 東大寺を作ったのは誰? - 西川純のメモ 東大寺を作ったのは誰? - 西川純のメモ のブックマークコメント

 東大寺を造ったのは誰でしょう?一般的には聖武天皇です。でもクイズ的に笑いを取るのだったら「大工さん」というのが答えです。使い古されたジョークです。でも、大工さんではなく聖武天皇が本当の答えである理由はなんだかお分かりの方は多くはないように思います。

 先だって、ある方から以下のようなメールを頂きました。

 『T先生と現職の方、西川先生と現職の方、両方の名前が記載されてある、論文を幾つか見つけました。科学教育(注 教科教育学系の学会誌)です。共同で書かれているのですか?それとも現職の人が書かれたのを指導しただけですか?○さんに聞いたのですが、「分からない。」と言われました。教えてください。』

 これを読んだ私は、怒りで頭が真っ白になりました。悲しさを感じるのではなく、攻撃感情に駆られた純粋怒りです。「無知故の非常識に由来するものであって、悪意はないだ」と必死に心の中で繰り返し、過去の自分の非常識さを思い出して、何とか心を落ち着かせようとしました。しかし、4時間以上かかりました。上記のメールは、およそ研究の世界に身を置くものにとって、想像し得る最大の侮辱であり、告発でもあります。研究の世界に踏み込んでから二十数年、このような侮辱を直接受けたのは初めてです。私の知りうる限り、私が直接知る人で、このような侮辱を受けた人を知りません。当然です、このような侮辱をするならば、相手と本気の闘争を覚悟しなければならないからです。それも、私のみならずT先生に対しても侮辱しています。

 しかし、連名という意味は、研究を知らないならば分からないのも当然です。おそらく、上記メールと同様の疑問を持った人もいらっしゃるとは思います。ただ、多くの人の場合、普段の私およびT先生とのつきあいで自然と了解するか、好意的に解釈していただいたのだと信じています。さらに、それでも疑問を持ったとしても、「しただけですか?」という問いかけをすれば、私が不快になるであろうという小学生でも持っている常識が直接問い合わせることをためらわせたのだと思います。

 論文に著者として名前を載せる意味は、その論文が明らかにしたことに関して、そのもっとも基本的な部分貢献したことを意味し、その論文に関する権利と、同時に責任を負っていることを示すものです。このあたりは、研究以外の世界の人にも何となく分かります。ところが、研究の世界以外の人にわかりにくいのは、「もっとも基本的な部分貢献した」という部分がどこか、ということです。その部分とは、「その人でしか出来ない部分」という意味です。東大寺を造ったのは大工さんではない理由は、大工の○○さんでなくても、△△さんという大工でもたてることは出来ますが、聖武天皇の代わりになる人はいないからです。

 例えば、異学年学習研究すると言うことは、その人だけにしかできないものではありません。何となれば、生徒会・児童会、掃除等で異学年の交流は一般的です。しかし、それを教科学習(教科性の高い総合学習を含む)で展開しようとするならば一般的ではありません。また、教師主導ではなく、殆ど教師が介入せずに展開しようと考えるならば一般的ではありません。想像してください、6年生と4年生が一緒に教科を学ぶ姿を想像できる教師がどれほどいるでしょう?

 また、我々の研究室では、膨大なビデオ記録を分析します。気の遠くなる作業です。しかし、その作業の殆どの部分研究においてもっとも基本的な部分ではない、と言ったら驚かれるのではないでしょうか?その作業においてもっとも基本的な部分は、ビデオ記録に現れる学習者の姿を特徴づけるカテゴリーを設定することなんです。何故なら、一度、カテゴリーを設定できたならば、その基準に基づいて膨大なデータを視聴しカウントすることは、他の人にも出来ます。また、その基準のもっとも典型的な事例を抽出することもアルバイト学生にも出来ます。なんとなれば、カテゴリーは、他の人でも一致した結果を引き出すような一般性と客観性を持っているはずなんですから。したがって、カテゴリーに従ってカウントする部分を、他の人(例えばアルバイト学生)にやってもらっても、何ら問題はありません。

 想像してください、研究テーマの設定、カテゴリーの設定に指導教官が不必要な状況がありえるでしょうか?私は想像することが出来ません。その他にも、どのような場の設定を行い、どのような課題を設け、どのような方法でデータを記録し・・・等々が指導教官無しで出来るでしょうか?(もちろん研修レベルならばできますが・・・)研究を行うに当たって必要不可欠な人が複数であるとき、それを共同研究と言い、論文を連名します。

 したがって、修士論文卒業論文を学術雑誌に投稿する場合、連名であるのは当然のことです。もし、指導教官との連名でない場合は下記を意味しています。

1. 共同研究概念として存在としない、古色憤然とした研究手法に固執している研究分野である。

2. 後述する「剽窃」をしている。(大抵は無知から発していますが)

3. 院生学生が飛び抜けた天才で、かつ、指導教官が飛び抜けた無能で、両者の間で指導関係が成立せず、かつ、それを取り繕うという気が院生学生にない。

4. 指導教官の方で、諸般の事情で連名にすることを断る。

 ちなみに、私の場合、修士論文をまとめた論文を含め、初期7編の論文大学院指導教官である小林先生との連名論文でした。私としては、その後も連名論文で出したかったのですが、小林先生から「これからは君の単著論文として出しなさい」と言われたので、単著として出しました。私の論文における貢献の割合から単著とすべきであるという小林先生研究者としての判断と、私一人で論文に対しての責任を持てるという教育者としての判断に基づくものと思います。

 さて、何故、私が(というより研究者が)上記のメールを、最大の侮辱と解釈するのかと言えば、研究者は「もっとも基本的な部分」に貢献することを最大の責務としており、それに誇りを持っており、その部分競争しているからです。

 例えば、想像してください。家庭でイクラ丼を作ったとき、主婦が人造イクラを使ったとしても非難はされません。しかし、寿司屋回転寿司ではありません)で人造イクラを使ったとなれば大変です。もし、寿司屋大将に、「おまえは人造イクラを使っているだろう」と言ったら、どうなると思います。同様に、温泉旅館の主人に、「おまえのところの風呂温泉ではなく、沸かし湯だろう」と言ったら。また、一流料亭の主人に「おまえのところの茶碗蒸しは、カナダ産の松茸を使っているだろう」と言ったら。これで私が怒っている理由は明らかになったと思います。上記のメールは、「もっとも基本的な部分」に貢献していない(出来ない)のにもかかわらず、貢献していると主張している、と書いているのと同じです。すなわち、「もっとも基本的な部分」を盗った(これを剽窃といいます)と書いているのと同じです。研究者の世界においては、これは殺人罪にも匹敵する罪です。

追伸 基本的な部分に影響を与えた場合、連名を基本としますが、その与えたものが文献になっている場合は該当しません。例えば、ペスロッチの本に影響され、その方法論によって本や論文を書いたとしても、ペスロッチと連名にする必要はありません。ただし、その文献を引用するなどして、その文献に依るところが大きいことを明示しなければ、剽窃となります。身近な例では、西川研究室の本は、私の単著となっています。それは、それぞれの本で表明しているラディカルな主張は、私の責任で書いているからです。教師が教えなければ何も変わらず、子どもは基本的に愚かだと固く信じている管理職は少なくありません。その下で働く可能性のある現職の方(また採用されれば、働く可能性のあるが学部学生)に、「教師は教えなくても良い!」なんいう主張に全面的に責任を負えなんてとっても不可能です。ただし、それぞれの研究室メンバーの成果に関しては、その出典を明らかにするとともに、その成果を高く評価しています。

追伸2 このメールに関して、発信者の人を呼びつけ、30分間、機関銃のような説教をたれました。いや、正確に言えば、怒りまくりました。そして、研究室を異動することを勧めました。権力を持ってる教師が、弱い立場である人に対して怒りを爆発することは、フェアーではありません。自己嫌悪します。しかし、当人はそれに対して、じっと耐え、謝罪し、もう一度やりたいと言いました。その言葉を信じ、謝罪を受け入れることにしました。しかし、少なくとも半年の間は、厳しい目で見つめることにします。でも、同時に期待もしています。

 ○へ

 うかれるな。だまってやれ。そうすれば周りの目も変わる。そうするためにも、たまにこのメモを見ろ!うまくいけば、笑って再読できる日が来る。