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2003-06-12

[]好きな言葉 15:28 好きな言葉 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 好きな言葉 - 西川純のメモ 好きな言葉 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 かって読んだ本の中で、今の自分に影響を与えたものはどれほどあるでしょう。意識せずに影響を与えているものは少なくないと思います。しかし、その内容をありありと記憶しているものというのは、読んだ総量に比べて微々たるもののように思います。

 高校の時、古今東西の古典を読みあさったことがあります。その中に「ゲーテの格言集」があります。そこには千弱の格言が掲載されていて、一つ一つは素晴らしいものでした。その当時は一様に見えてた格言ですが、四半世紀を超えてはっきりと私に残った格言は1つでした。学生さんの愚かさに接するとき、それに寛容になるために自分に言い聞かせる言葉であり、また、人に語る言葉です。四半世紀を超えた昔に読んだものですので、完全に正確には覚えていませんでした。最近、あらためて本を読み直し、その言葉を見つけました。私の好きな言葉です。

 『寛大になるには、年を取りさえすればよい。どんなあやまちを見ても、自分の犯しかねなかったものばかりだ。』

 自分の児童だったとき、生徒だったとき、学生だったとき、若手の教師だったときを思い出せば、どんな過ちも許せます。20年も経てば、どんな中年のおっさんも許せるようになるでしょう。

[]可視化の功罪 15:28 可視化の功罪 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 可視化の功罪 - 西川純のメモ 可視化の功罪 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々は、集団の中で、メンバーの持つ情報を出来るだけ共有することが大事だと考えています。簡単に言えば情報公開であり、状況論的に言えばリソースであり、そして、我々は可視化と呼んでいます。他の班の活動、クラスメートの成果をクラス全員が見える状態(教師が「見せる」ではありません)にすれば、その情報が有効であるならば、子どもは教師からとやかく言われなくても見るようになります。そして、それに触発されて自身の活動の質を高めていきます。そのような過程を、我々は何度も見てきました。しかし、なんでもかんでも可視化することの問題を感じられている教師もおられると思います。例えば、定期考査、業者テストの点数を廊下に並べること問題は、教師ならずも意識されることと思います。しかし、点数を可視化することには問題はないと思います。問題は、その点数を序列に意味づけていることが問題なんです。例えば、「顔にあるほくろの数」なんかを廊下に張り出して、何の問題が出るでしょう?また、廊下に張り出されるものが「点数」ばかりではなく、多種多様(「ご飯をいっぱい食べた人の順位」、「逆上がりの回数」・・・)であったらどうでしょう。「点数」が人の序列を意味していないと考えたらならば何が問題なんでしょうか?実は、「テストの点数の公開は問題だ」という意識は、「テストの点数は人の序列」であるという、私自身の囚われの方に問題があるのかもしれません。もしくは、「テストの点数は人の序列」であるという意識は、教師はいかんともしがたいと思っている諦めがあるのかもしれません。

[]年齢毎の目標 15:28 年齢毎の目標 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 年齢毎の目標 - 西川純のメモ 年齢毎の目標 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先月末に本学附属小学校研究会がありました。その研究会に参加するため、遠方から研究に関するメル友である小学校先生がいらっしゃいました。大学から抜け出て、昼飯を食べながらお話ししました。いつもの格調高いメールの内容から、かってに40代後半(もしくは50代)とかってに想像していましたが、30代の先生ビックリしました。しかし、話してみて、考え方のしっかりした方で、メールの格調高さに一致していました。話の終わり頃に、「先生みたいな人は、はやく管理職になって下さいね」と申しましたら、間髪入れず、「子どもと離れたくないから管理職は考えていない」との返答でした。でも、くいさがって、「今と同じように、40、50になっても子どもたちと接しられますか?」と話し、若い先生を守るような管理職になって欲しいと申しました。

 大学1、2年の頃に読んで面白かった本に花伝書という本があります。花伝書は能(申楽)を今日のような芸術性の高いものにした世阿弥芸術論です。大部分は能に興味がない私にとっては意味無いものですが、その中の「年来稽古条々」という部分は非常に面白く読めました。内容は、能を学ぶ際、7歳、12,3歳、17,8歳、24,5歳、34,5歳、44,5歳、50歳代のそれぞれの年代で、何を目標として、どのように学ぶべきかということが書かれています。能を学ぶことに即した内容ですが、およそ学ぶということに共通したことが書かれています。当時の私にとって40代は遠い未来のことでしたが、「24,5歳」は当面の目標でした。曰く、この年齢は芸道がなるか、ならぬかのポイントであることが述べています。また、一時的な成功を収めても、それは年齢の若さに由来するものであり、その成功に慢心しては大成は不可能であると書かれています。また、「34,5歳」では、その年あたりまでに「一流」と世に認められなければ、その後はなく、40代は落ちる一方だと述べています。若い自分にむち打ちました。

 しかし、この「年来稽古条々」の本当に面白いのは、それ以降のことで、それが本当に分かるには私が30代後半になったころでした。花伝書では「44,5歳」では、それまでの自分一人でやる方法を変え、一緒にやってくれる人を捜すべきだと述べています。そして、自分自身は無理せず、若い人に華を持たし、控えめにせよと述べています。そして、「50歳代」は無能になると看破しています。そのころには無理せず、必要以上のことはするなと述べています。でも、同時に次のように述べています「さりながら、真に得たらん能者ならば、物数はみなみな失せて、善悪見所はすくなしとも、花は残るべし。(しかしながら、真実芸道を達得した役者ならば、老人向きの演目は少なくなってしまって、どんなに見せ場は減ってしまっても、花はやっぱり残っているであろう。)」。ちょっと、ホッとします。

 若いときにやっていて成功したことが、年を取っても成功するわけではありません。その年齢においてやるべき事があるように思います。40代になった私は、20,30代の自分に比べ、格段に無能になったと思います。しかし、ともにやってくれる人のお力によって、なんとか仕事をこなしています。でも、あと6年3ヶ月で50代になります。そのころは一層無能になっているように思います。もしかしたら、ともにやってくれる人のお力でも、どうしようもない無能になるかもしれません。いや、一緒にやってくれる人がいなくなるかもしれません。惨めなものです。それを避けるためにも、40代の私は、40代のやりかたをしっかりやるべきだと思います。そのことが老年に達したとき、老残をさらす危険性を避ける方法だと、私は思います。

追伸 世阿弥の時代に比べれば、平均寿命も、世の中の有り様も変わっていますので、世阿弥の言った年齢にプラス5~10歳ぐらいの補正を加えなければならいかもしれません。しかし、いずれにせよ、いつまでも同じ事をやってはいけない、ということは確かだと思います。