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2003-09-28

[]会社学校の違い 22:30 会社と学校の違い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 会社と学校の違い - 西川純のメモ 会社と学校の違い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は学び合いによって互恵する関係が望ましいと考えています。学校教育では切り捨てることはすべきでないと考えています。ところが、大学改革や学術研究においては競争的な関係が必要であると主張しています。さらに、大学改革や学術研究の世界においては、無能なものは切り捨てるべきは切り捨てるべきと考えています。どちらのことに関しても、かなりの確信を持っています。それでは両者の違いは何なのか、モヤモヤしていました。しかし、分かりました。それは目標を狭く限定出来ないか(もしくは、するべきでないか)、狭く限定来るか(もしくは、するべきか)の違いのように思います。

 学校教育において評価の対象は実に多様です。例えばテストの点数にしても、教科ごとに得手・不得手があります。全ての教科が得意という学習者は希でしょう。ある面で無能であっても、別な面で有能さで補うことが出来ます。どんな無能な人であっても、24時間という時間は等しく与えられています。その24時間を他のメンバーの役立てることによって補うことは可能です。互いのいたらなさを、互いの有能さで補うことは、メンバーに等しく有利に働きます。仮に、全ての面で有能で、他者からの援助が不必要な学習者がいたとしても(まあ、いないでしょうが・・・)、学習集団の中で生きていくならば、それなりの処世術は必要です。これは、小学校中学校高等学校の教師の環境にも一致します。

 ところが、プロスポーツの世界は違います。求められる能力は極めて限定されたものです。その能力がありさえすれば、人格的にかなりの問題があったとしても、それなりに敬意を持って遇されます。これは一流の音楽家の世界も同じだと思われます。両者とも、努力の要素はありますが、それ以上に才能が左右します。平凡な人がいくら努力したとしてもイチロウ選手にはなれません。才能のある人が、めちゃめちゃな努力をする世界です。 複数のチームを渡り歩いたあるプロ野球選手(一流)が言っていました。曰く「弱いチームは直ぐ分かる。仲良しこよしで傷をなめあっている。強いチームは、隙を見せれば、直ぐにチームメートにつぶされる」と言っていました。怪我で休場しているチームメートの背番号を帽子に付けて出場することが美談として扱われています。しかし、本当にそのチームが強いならば、その美談の陰に熾烈なつぶし合い、け落とし合いが行われているはずです。

 それでは学術研究の世界はどうかといえば、プロスポーツの世界に近いものがあります。最先端の研究の世界で求められる能力は、極めて限定された能力であり、かつ、最高を求められます。研究は常に世界最初を求められ、第二番目は全く評価されません。大学人は教師という側面を持ちますが、研究の能力のない教師は生き残れません。研究能力があって、はじめて、教師として生きていくことが出来ます。もちろん、研究の世界においても協力する能力は必要です。少なくとも、生きているうちに正当に評価されるためには、処世術は必要です。さらに、協力能力を持つことによって、自分の実力の何倍もの力を発揮できます。しかし、小中高の学校における子ども・教師が求められるものに比べれば相対的に低いのは確かです。さらに、独立法人化によって、民間企業のように営利というシンプル目標を掲げる必要が出てきました。

 したがって、ある集団においての関係を定めるのは、やはり、目標のあり方だと思います。もし、その目標が限定的であるならば、競争的であり、かつ、切り捨てもあり得ることになります。しかし、限定的でなく、複雑な要素が絡まるならば、互恵的であり、切り捨ては避けるべきだと思います。それでは、大学教育大学院教育はいずれかといえば、両方の面があり一義的に決まりづらいとしか言えません。難しい・・・

[]おもちゃ王国 22:30 おもちゃ王国 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - おもちゃ王国 - 西川純のメモ おもちゃ王国 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 年休を取って、久しぶりに東京墓参りに行きました。といっても初日の目的は、息子を大好きな新幹線に乗せることです。東京に行ったんだから、どこかに行きたいと思いました。デズニーランドは息子にはまだ早いようです。色々探した結果後楽園のドームシティーにおもちゃ王国というのが出来て、その中にプラレールランドがあるそうです。そこに行きました。とってもよかった。

 平日のため、人があまりいません。入館すると、巨大なプラレール模型セットに息子は魅入られました。また、本当に山ほどあるプラレールに圧倒されました。息子を喜ばそうと、プラレールを組み立てていると、いつの間にか夫婦の方が一生懸命になってしまいました。完成したプラレールセットに息子は大喜びです。近くを通った「おかあさん」がとなりの「おかあさん」に、「ここは本格的だわね」と言っているのが聞こえました。

 ここで1時間半ほど、徹底的にプラレールで遊ばせ、となりにある知育ルームに行きました。そこには世界全国から集められた知育おもちゃがあります。これまた、人が少ないので、じっくりと多種類のおもちゃで遊ばせることが出来ました。充実した3時間でした。

[]入場券 22:30 入場券 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 入場券 - 西川純のメモ 入場券 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私の実家東京都営地下鉄線の終点近くにあります。実家に到着してから、息子が地下鉄を見たいと言ったので、都営線の駅に行きました。入場券を買おうと券売機で探しましたがありません。改札にいた駅員さんに「入場券はいくらですか?」と聞くと、「え!?」という顔をされていました。しばらく息子をだっこしている私を見て理解されたようです。「電車を見るだけですか?」と聞かれるので、「はい」と答えると、「それではただで結構です」と言ってくれました。「よ!ふとっぱら」と心の中で思いながら、頭を下げて入りました。地方の駅の場合、見送りがあり、入場券は必要です。ところが、都会の通勤電車では、そのようなものは必要ないため、「入場券」が存在していなかったんですね。東京出身ですが、この年になってはじめて、都営地下鉄に「入場券」が無いことを発見しました。

[]当たり前 22:30 当たり前 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 当たり前 - 西川純のメモ 当たり前 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 数学ではとてつもなく当たり前のことが、当たり前でない場合があります。例えば、大学で1たす1が2であることをペアノの公理をもとに証明する過程を見てえらく感動しました。また、マイナスかけるマイナスが何故プラスになるかを代数学的に証明する過程も感動しました。上記の証明あたりは私でもついていけるんですが、ついていけないものもあります。たとえば、紙に○を書き、その内側と外側にそれぞれ点を一つ書きます。この二つの点を線で結ぶ場合、○の線を横切らなければならないという、とてつもなく当たり前のことを証明する過程は理解不能です。なにしろ20世紀半ばまで証明できなかったんですから・・・(それを聞いて、二度ビックリです)。

 教育研究の場合も、「そんなの当たり前じゃない」と言われるようなことがいっぱいあります。というより、以前のメモで書いたように、教育研究上正しいことは、よく説明を聞けば「当たり前」のことです。「当たり前」でなければ正しくありません。しかし、「当たり前」のことが「当たり前」に一般に認識され、「当たり前」に行われているかと言えば、そうでもありません。何故かと言えば、教育研究の場合、「○○からAが正しいのは当たり前である」という理屈と、「○○からAは正しくないのは当たり前である」という理屈は、同じぐらいにもっともらしくできます。「理屈と膏薬はどこにでもつく」というやつです。

 世の中に「そんなの当たり前じゃない」と言う人がいます。私の場合、そういう人の対処するために、主張したいものの逆の主張の存在を強調し、当たり前でないことを主張します(学術論文の「はじめに」に相当します)。主張したいものの逆の存在を探すために文献を調べることもあります。でも、もっとも効果的なのは、自分の主張することを「実際にやるか?」と問えば、山ほど「そうしない理由」を教えてくれるでしょう。

 相手に「当たり前」という印象を与えたならば、それは主張が伝わったことを示します。あとはレトリック(修辞)の問題です。ちなみに上記は本「実証的教育研究の技法」に書いたことですけど・・・