■ [う~ん]願い
研究の世界にいるときは、研究の世界の暗部が見えます。そして、それにくらべて教育実践の世界が青い芝生のように見えていました。大学で日常に行われている、馬鹿馬鹿しいことは小学校、中学校、高等学校ではありません。でも、それらと関わる頻度が高くなると教育実践の世界の暗部がよく見えてきます。
私が経験した高校はとても良い職場でした。職員の人の殆どがやる気がありました。考えてみれば当たり前です。懸命にならねば授業が成り立たない職場でした。そして、目の前で子どもが奈落に落ちるのを見続ける職場なのですから。私の原体験としての教育実践の世界はそのような職場でした。だから、他の職場もそうなんだろうな~っと思っていました。
が、違うんですね。
私の経験した高校にも、現状の問題の原因を他に帰す人はいました。そして大学にもいます。そのような人は、集まれば悪口の話で話題が尽きません。そんな人の話を横で聞いているだけで自分の心が腐ってしまいそうです。でも、たいていの人はそうではありません。だから物事がそこそこ動いているのです。
問題を問題として認識しない職場が少なくないことを知ります。成績が悪い子どもが多くても、不登校が起こっても、非行が起こっても、それは子どもの問題、家庭の問題、地域の問題とごく当然のように解釈する職員が大部分の職場があることを知りました。
そのような職場で何とかしようともがく人がいると、「変なやつ」と分類されます。そして、その人のようにもがかぬ自分たちが非難されているように感じ、逆にその人を非難し排斥することによって自己合理化します。そのような職場で求められるのは問題の解決ではなく、とりあえずの対処療法と問題の先送りです。
そして行政は、「やった」ということを求めますが、その「やった」ことに対する「結果」の責任を取りません。結果として薪能のように様式化した授業が生まれます。
でもね、そんなのは続かない。当然の権利を主張する保護者が生まれるのですから。そして、反乱する子どもが生まれるから。
まあ、おそらく私の言っていることは「ヨハネの黙示録」のように思えるでしょう。なにしろ第一章の冒頭に「この黙示は、神が、すぐにも起こるべきことをその私たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、私ヨハネに伝えられたものである。」とあるのに、二千年たっても七つのラッパは鳴り響いてたとは思えない人が大部分ですから。