■ [大事なこと]練習問題
本日は学部3年生とゼミをしました。その際、学部学生から大学での授業における模擬授業に関して突然に質問を受けました。単元は「現在完了形と過去形の違いを分かる」という部分です。模擬授業は、現在完了形と過去形の例文を学習者(大学生)に与え、「さあ二つの違いは何かな?」と課題を出し、学習者に話し合わせ、その違いは「過去は過去の時点、今はどうだか分からない。現在完了は、過去のある時点から、今もず~っと続いている。」であることに気づかせよう、というものです。その際、発表グループのメンバーで意見が分かれたのは授業の最後に「まとめ」を教師がすべきか否かです。多くの学生は、最後に教師役が「現在完了形と過去形の違いは」ということを黒板に板書しながら説明し、まとめようと考えました。その理由は、話し合わせただけでは、本当に正しい結論に達したか定かでないので、確かなものにしようと考えました。一方、少数の学生は、そのような方法では教師主導のやり方であるので、まとめはせずにしようと考えました。その理由は、話し合えば正しい結論に達するはずである、というものでした。面白く聞きました。私は英語教育の専門家ではありませんが、我々の考えにもとづいて考えました。そして、この学部学生さんの質問は、我々の研究室の考え方が分かっているか否かの練習問題となると考えました。皆さんは、どう思われます?
話を聞きながら私がまず考えたのは、その授業の目標は何だろう?ということです。おそらく、その学生さんは「過去は過去の時点、今はどうだか分からない。現在完了は、過去のある時点から、今もず~っと続いている。」が分かることであると答えるでしょう。でも、先に挙げた学生さんの授業展開であるならば、本当に学習者が分かっているか否かなんて判断出来ません。せいぜい、教師が「分かりましたか?」と質問して、みんなが「は~い」と答えるのを聞く程度です。分かっていない子どもがいても、「は~い」と答えるでしょう。詳しい質問をしようにも、「課題を提示し」、「子どもたちに話し合わせ」、「授業のまとめ」をした後に残る時間なんて殆どありません。だから、「は~い」と答えたら、それで終わりです。つまり、学生さんの授業の目標は「教師が「分かりましたか?」と聞いたら、「は~い」と答える」という、改めて文字で書くと、とてつもなく馬鹿馬鹿しい目標になるんです。一方、私が考えたのは、そのことが確かに成り立っていると教師が判断出来る状態は何か?ということです。私なりに、「いくつかの和文・英文の例文を与えて、それが過去形になるべきなのか、過去完了になるべきなのかを判断出来、そして、その理由が説明出来る」ことであると考えました。
私は、「授業のまとめの時に話す説明、また、板書する内容って紙に書き出すことが出来るよね?」と質問した学生さんに聞きました。その学生さんはうなずきました。そこで、「その説明を紙で渡すのと、教師が板書して説明するのと、どこか変わることある?」と言いました。その学生さんは「無い」と答えました。「じゃあ、その紙を子どもたちに渡せばいいじゃない」と言うと黙ってしまいました。さらに、「もっといいのは、その紙を授業の最初に子どもたちに渡せばいいじゃない」と言うと、怪訝な顔をして「それじゃあ、話し合わなくなります?」と言われました。たしかに「さあ二つの違いは何かな?」という課題でしたら、その答えを与えたら話し合わなくなります。でも、それは課題が良くないに過ぎません。
学生さんには、「な~にも分からない学習者だけを集めて、たった数十分間で正しい答えを発見出来ると思う?出来ないと思うでしょ。でも、発見出来ると思っているのは、学習者集団の中に答えを知っている人がいると思っているんでしょ。だったら、みんな知らないふりで課題を与えるのは不自然だよ」と言いました。また、「でも、授業の最後に何にもしないというのも問題だよ。おそらく多くの班では正しい答えに達すると思うよ。でも、絶対に全部というわけではなよ。さらに、班の中に、実は分かっていない子が含まれる可能性は高いよ」と言いました。
私の考える方法は以下の通りです。まず、中間・期末試験で使うような現在完了形に関する標準的な問題を与えます。そして、それらの正解も与えます。そして、それらを解答する方法は、「過去は過去の時点、今はどうだか分からない。現在完了は、過去のある時点から、今もず~っと続いている。」であることを、先の教師がやるであろうまとめを文章化したプリントによって与えます。次に各人が問題を解き、それで問題が解け、納得出来るか否かを話し合わせるのです。おそらく、解答出来ないか、納得出来ない子どもが出るでしょう。そこで、話し合わせるのです。そして、教師が最後にやるべき事は、各班の一人を指名し「全員納得して正解出来た?」と聞きます。もし、納得出来ない人がいれば、それを題材にクラス全員で話し合わせればいいことです。もし、授業時間内に解決出来なくても大丈夫です。だって、おそらく授業が終わった休み時間も、そのことを子どもたちは話し続けるに決まっています。これが我々の考える、目標を与えるということです。
先に述べたように、「でも、全員納得していなくても、納得したと言ったら分からないじゃない」という可能性があります。それに対しては、1年間に数回だけで結構です、「全員納得出来ました」という班の一番不得意そうな子どもを指名し、問題を与え答えさせ、なぜ、そのような解答になったかを説明させるんです。そうすれば、化けの皮がはがれます。もちろん、化けの皮をはぐことが目的ではありません。「私は見ているんだよ~」というメッセージをクラス全員に与えることが大事です。それに、そんなことをしなくても、定期テストで結果が出ます。その結果に基づいて、なぜ、出来なかったかをグループごとに答えさせればいいことです。これが、我々の考える評価です。これが出来るのも、何から何まで教師がやらなければならない、と考えないから時間的な余裕が生じるためです。また、子どもたちに、教師の評価の基準を明確に与えているので誤解が生じないためです。そのため、やるべきことを悩まずにすみます。そして、その努力の結果は、確実に、教師に評価されます。一方、「分かる」なんていう曖昧な評価基準では、子どもどのような努力をすべきか分かりません。したがって、「やれません」。それでも努力しても、結局、空回りしてしまい、やる気を失います。
教師の仕事は教えることではなく、目標を与え、場を保証し、評価することです。その考えにもとづいて「その場で思いついた」、英語教育を専門としていない者の練習問題の回答です。