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2004-05-13

[]ウルウル 16:05 ウルウル - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ウルウル - 西川純のメモ ウルウル - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今週の頭に4年のNちゃんとディスカッションをしました。Nちゃんのテーマは、「学び合いによるテスト」です。すごくおかしなテーマでしょ。多くの教師は、テストといえば、一人で答えを出して、それを教師が採点するものだと考えています。だから、テストの時間に子ども同士が相互作用するなんて、とても考えられないと思います。それを乗り越えよう、というのがNちゃんの研究です。

 ゼミに来た時のNちゃんはだいぶ悩んでいました。つまり、学び合いによるテストでは「教師」が子どもの能力を測れない、という問題にぶち当たってしまいました。Nちゃんは色々と語ってくれました。しかし、それに対して私は以下のように語りました。

私:Nちゃん、なんで教師が子どもの能力を測れないと駄目なの?

Nちゃん:子どもがどんなところが分かって、どんなところが分からないかが分からなければ、それ以降の指導の手だてがつかないからです。

私:子どもは一人一人、多様な誤解を持っているよ。それを40人分ちゃんと評価することなんて出来るの?そんな評価をすれば、ものすごい手間がかかるよ。それに、その手間のかかる評価によって、一人一人、膨大なデータが出る。その40倍のデータが出るんだよ。それを読める?そして、それに対応した指導なんか出来る?少なくとも、私には出来ないよ。Nちゃん、囚われているよ。我々の研究室の考えを思い出してよ。子どもを救うのはまず自分。それを手助けするのは子ども。教師はそれを実現する場を提供するんだ。子どもを救うのは子どもなんだ。だから、テストを通じて、どれが分かって、そんなところが分からないかが分からなければならないのは、まず、本人で、次に周りの子どもなんだよ。周りの子どもが、友達がどんなところが分かって、どんなところが分からないかを知るためには、学び合いによるテストしかないでしょ。

 言い終わった後、それまで不安だった自分のテーマに自信を取り戻し、Nちゃんはウルウルしました。(こういうところも学生さんが可愛いところです) 

 白状しますと、偉そうに諭した私が、分かっていたというわけではありません。Nちゃんとディスカッションするまで、ハッキリしたことは分かっていませんでした。でも、Nちゃんとディスカッションする間に、我々の研究室の考え方で、もう一度考え直すことをしました。その瞬間に私に見えたことを、百年前から知ったように語っただけです。これから、Nちゃんが、どんどん、テーマを膨らまし、深みを与えてくれることでしょう。ワクワクします。

追伸 私自身が自分の囚われに気づいた時、ウルウルなりかけました。しかし、Nちゃんが先手でウルウルしたので、ウルウルをグット我慢しました。皆さんへ、学部学生さんが、私の部屋を目を赤くして出てきたとしても、私が怒って泣かしたわけではありません。誤解がないように。

[]出発点 16:05 出発点 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 出発点 - 西川純のメモ 出発点 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私が理科コースにいた時のことです。多くの院生さんから修士論文のテーマの相談を受けました。院生さんの持ってくる最初のテーマは、教材や単元をメインにしたものでした。例えば、「小学校電気教材に関する研究」や「中学校粒子概念に関する研究」のようなものです。それに対して、私は以下のように言います。

 ○○さんのテーマは電気教材というものだけど、それを一生懸命研究して、現場に帰ったら、指導要領の改訂で電気が無くなったらどうする?そんなことは絶対にない、という顔しているけど、そうでもないんだよ。例えば、以前はたくさんやっていた幾何光学は理科から姿を消したよね。それに、日本では絶対にやるオームの法則をやらない国は少なくないよ。でも、電気をやるな、と言っているわけではないんだよ。電気をやるのは何故か?を考えて欲しいと言うことなんだ。例えば、電気を学ぶ意義は、「目に見えない現象を数量的に把握することを学ぶ最適の教材であると考えるならば、テーマは「目に見えない現象を数量的に把握する指導に関する研究」として、副題を「小学校電気教材を事例にして」とすればいいんだ。自分のやろうとする題材に着目するのではなく、その題材の教育的意味を考えるべきだよ。

 と説明します。ただし、修士論文・卒業論文のタイトルは、高度に政治的な意味を持ちます。したがって、「○○教材に関する研究」とする場合があります(そうしないと、怒る先生が理科コースにいたので・・・)。しかし、その場合でも、心の中では、その題材の教育的意味を意識した研究を進めます。

 連休を明けると、直ぐに修士1年の研究題目の提出があります。この時期の研究題目は、全くの仮です。極端な話、「学習臨床に関する研究(その1)」、「学習臨床に関する研究(その2)」、「学習臨床に関する研究(その3)」、「学習臨床に関する研究(その4)」、「学習臨床に関する研究(その5)」でもいいんです。でも、院生の皆さんに、自分のテーマを考えて貰いました。以下がそのテーマです。

 小学校算数科における「学び合い」の有効性と意義

 生徒の科学概念形成のための学び合いの場 ~生徒のコミュニケーション能力を生かした学び合いの場~

 生徒の問題解決の力を高める学び合いの有効性

 中学校社会科による学び合い学習に関する研究

 教科におけるコミュニケーション能力育成の特質について

 以上、多様ではありますが、「学び合い」がキーワードになっているのは、我が研究室のキーワードであるから当然でしょう。でも、一つの特徴があります。それは、久しぶりに、教科の内容に依存する(もしくは強く関連する)テーマが主流となっています。これから、このテーマが2年間かけて変わっていかなければなりません。上記のテーマを本当に教育実践にいかすためには、「小学校算数科は何のために学校教育にあるのか?」、「科学概念形成は何のために学校教育にあるのか?」、「問題解決能力育成は何のために学校教育にあるのか?」、「中学校社会科は何のために学校教育にあるのか?」、「教科は何のために学校教育にあるのか?」ということに自分なりの答えを出さねばなりません。その答えは、指導要領の文言から引き出せるものではありません。その答えは、自分が学校に帰ってから指導する子どもたちに胸を張って「熱く語れる」ものではなく、そして、それを子どもたちが共感するものでなければなりません。

 よい論文のタイトルは、そのタイトルを見ただけで、その研究の目的、そして結果さえも見えるものだと言われます。つまり、タイトルとはこれから2年間かけて作り上げるものです。上記のタイトルは、その出発点です。