■ [大事なこと]小中の連結

ある小学校で『学び合い』ついて質問がありました。内容は、小学校で学び合いをやったとしても、中学校ではそれに対応してない、小中の連結の意味で問題が生じないか?ということです。
また、ある先生から、有名なN県のI小学校の教育を例に出して話されました。それによると、その先生はI小学校の教育に関して共感を持っていたが、かってその教育を受けた大学生と話したとき、「振り回された」と聞いたそうです。そのことから『学び合い』を学校で取り入れたら、同じようなことが起こるのではないか、と指摘がありました。
私はその場で説明したのですが、足りないと思い、その後書面を送りました。長文ですが、載せます。前後の文脈が分からないとわかりにくいところは多少加除し、固有名詞は伏せました。以下の通りです。
○○小学校の皆様へ
先日はありがとうございました。当日は時間が無く、伝えきれなかったことも多かったです。また、言葉というのは残りません。先日の中学校との関連に関する疑問は大事な疑問ですので、改めて、手紙にしました。
まず、学び合いをすると、それを引きずって中学校で混乱を起こすかどうかという点ですが、それはありません。それは当日お話したように、子どもは人を見て法を説いているからです。我々は小学校1年生でも学び合いをやっていますが、小学校1年生でも学び合いをやっていない専科の先生の時間は、そのように行動しています。ましてや小学校6年の子どもが出来ないわけありません。
次に、○○先生からのご指摘に関してです。正直、学び合いが理不尽と子どもに思われるとは思ったこともありません。そのため、うまく説明できなかったと思います。そこで整理して説明したいと思います。
理不尽だと子どもが思うとしたら、その原因としては少なくとも2つ思いつきます。まず第一は、教師のためにその学習をしている、と子どもが考えたためだと思います。おそらく、○○先生が話し合ったI小学校出身の学生さんの事例はこれだと思います。
我々も授業を公開することがあります。御校の先生にも見ていただいた、埼玉の学校の例もそれです。しかし、彼らが上記のように思うとは思えません。まず、我々は子どもは有能だと信じていますので、公開する意味をちゃんと語ります。具体的には、「みんなが経験している学び合いを、もっと多くの人に経験してもらうために公開するんだ。みんなの凄さを教えてあげよう!」ということです。想像するに、これをやっているI小学校の先生方は少なかったのではないでしょうか?さらに少ないのは評価の還元です。我々の場合は、授業の後に感想をブログやHPで、学び合いをやっている子どもの凄さを、それぞれの人が公開しています。授業者は、そのブログやHPを教えます。つまり、授業の結果に関して評価を子どもたちに還元しているんです。つまり、子どもたちにとって「自分たち」の姿を評価される場であると考えています。それが証拠に、公開授業の前後で、子どもたちの学びの姿が変化します。はたしてI小学校の先生方は子どもたちにそれをやっていたでしょうか?I小学校レベルの公開ともなれば、いろいろの無理をしているはずです。しかし、その結果が自分(子ども)たちに還元されていないとしたら、子どもたちは「先生のための研究会」と捉えるでしょう。○○先生の聞いた「振り回された」という言葉はここから生じたと思います。
子どもが理不尽だと考える理由の第二は、その授業自体が理不尽なときです。個人名を挙げることに躊躇しますが、皆様が配慮していただけることを信じて書かせていただきます。○○という実践者をご存知でしょうか?私もごく初期の段階、彼女の本に惹かれていました。ところがです、彼女の実践ビデオを見て愕然としました。一言で言えば、「怖い」授業でした。とても、子どもたちが望んで学びあっているのではなく、教師の命令で学びあっている姿でした。その後、彼女の小学校の子どもが進学する中学校の先生が上越教育大学に現職派遣でこられたので、その先生から話を聞きました。それによれば、彼女の教え子の半数近くが、彼女の学び合いを嫌がっていたとのことです。そこで、御校で埼玉の『学び合い』の実践を見た方にお伺いしたい。皆さんの見た子どもは、いやいやながらさせられている子どもだったでしょうか?
以上の理由から、問題は無いと考えます。
さて、中学校と小学校の違いがあって、それを連結しようとすることは大事なことです。しかし、どちらにあわせるべきかは、学校教育の本義に基づいて考えるべきだと思います。
学校教育の本義は人格の完成です。それでは教科学習の中で、その人格の完成を目指した授業が一斉授業なのでしょうか?
子どもは教師によって、対応を変えることはたやすいことです。ところが同じ教師がコロコロ変えると混乱します。具体的には、特別活動、ホームルームでいくら人間関係をといても、教科学習の中でそれを具現化していないならば、教師の言う人間関係もその程度であると子どもは評価します。考えてみてください。子どもたちが、自分の担任がどんな考え方を持っているのかを判断する材料は、どの時間から得ているのでしょうか?学校教育の殆どの時間は教科学習の時間です。
子どもはちょっとのことから、教師の腹を見透かします。例えば、学び合いの初期段階で、出来る子どもが「先生、出来た出来た!」と満面の笑みをたたえてきたらどうするでしょうか?多くの教師はニコニコしながら、「偉いね~」と褒めるかもしれません。しかし、それをやると、その子どもは「自分が出来れば先生は評価してくれる」と判断します。そして、その様子を見ているほかの子どもも、それに習います。結果として、学び合いが停滞し、最悪は崩れます。ちょっとしたことのようかもしません。しかし、問題は教師の心の中にあります。それを見透かされるから問題です。では、我々はどうするかといえば、「ふ~ん、そうよかったね。でも、みんなは出来ていないよ。先生はみんなが出来ることをめあてとしたんだよ。」と言います。
こんなちょっとのことで、子どもは教師の腹を見透かせるとしたら、教科学習の中で人格の完成を求めていない状態で、子どもが人格の完成を出来るでしょうか?私は無理だと思います。
G県のY小学校の先生方も中学校との連結を考えています。しかし、先生方が心配しているのは、中学校に行ったら学び合いが出来なくなり、今は癒されている子どもたちの中から不登校やイジメが生じるのではないか、という懸念です。実際、学び合いをやることによって、子どもたちの人間関係がよくなることを実感している先生方です。また、他校でイジメのために不登校になった子どもが、Y小学校に転校するとごく普通の子どもになることを目の当たりにしている先生方です。そのような子が、学び合いを奪われたとき、問題は表出します。考えてください。中学校でイジメが生じるような教育だから、その連結のために小学校でもイジメに慣れさせたほうがいい、という論が成り立つと思われるでしょうか?
小学校、中学校のいずれが変わるべきなのかは論を待たないでしょう?連結という次元で考えるのではなく、どんな教育が学校教育の本義にかなっているか、という視点で考えていただきたく存じます。
ちなみにY小学校では中学校に働きかけています。しかし、十分ではなく、それを危惧されています。その先生方には、「先生方は中学校までついていって、その子どもを守ることは出来ません。しかし、先生方の教え子の保護者の方はその子について中学校に行きます。保護者の方に、「何故、子どもたちが喜んで学校に行くのか」をちゃんと説明してください。小学校の先生方がいくら言っても中学校が変わらないとしても、親が言えば変わるかもしれません」と話しています。もちろん、中学校の先生方からは嫌がられるかもしれません。しかし、自分の教え子の将来、そして3年後に、5年後に中学校に送り出す教え子のためにすべきことは何かを考えてください。
くちはばったいことを書きました。ご寛恕ください。そして、その意を汲んでいただければ幸いです。