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2007-05-03

[]夢 21:40 夢 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 夢 - 西川純のメモ 夢 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今、新ゼミ生と個人ゼミをしています。最初は、今までに出版した西川研究室の本を出版年代に沿って読み、分からないこと、納得できないことを議論します。その議論によって、西川研究室の本が一般の先生にはどのように見えるかが分かります。だって、西川研究室に所属を決めるぐらいの方でも、なかなか納得してもらえないのですから。

面白いのは、「何故理科は難しいと言われるのか?」、「学び合う教室」、「学び合いの仕組みと不思議」、「心の教科指導」あたりまでは、比較的たやすく納得してもらえます。その頃の時代は、一般の先生方が悩んでいることを解決していた時代です。それ故、ゼミ生の方は、「は~、なるほど、今まで悩んでいたことが解決しました」とか、「へ~、こんな方法でやれば良いんですね。今までやっていた方法より簡単だし、効果が高い」と感心してくれます。

 が『「静かに!」を言わない授業』、『「座りなさい!」を言わない授業』、『「忙しい!」を誰も言わない学校』、『「勉強しなさい!」を言わない授業』になると、カルチャーショックを受けるようです。今まで信じていた大事なこと、そして、それに基づく疑問が、どうでもいいことであることを連綿と証明しているのですから。理屈としては分かるのだが、必死になって、それを否定しようとします。しかし、私の方で、それを片端から、誰でも知っている知識を単純な論理を組み合わせることによって論破します。さらに、それが現実となっているクラス子どもを見せれば、証明終わりです。

 でも、今では研究が終わっているが、まだ本にしていない知見を知り始めると、もっと混乱します。だって、これから出版する本では、「特別支援の子どもの過半数を、簡単に問題ない子どもに出来る」、「子どもが指導要領を読み込んで、教師から観ても妥当な評価観点を作り、自己評価する」、「子ども達が数ヶ月にわたって単元計画をして学習を進める」というものです(その他もあります)。そのいずれにおいても教師の発言時間は極めて短く(最短の場合は、1時間あたり3秒)で、クラスの全員(特別支援の子どもも含む)の成績が驚異的に上がるということです。まあ、ゼミ生がデータを見せられて混乱するのは当然です。私だって、「火星人がいる」、「1+1は実は3だった」というデータを出されたら、そのデータ論理的で妥当であったとしても、納得するより、その瑕疵を捜すことに全力を尽くすでしょう。

 おそらく、このレベルになってくると、我がゼミOBでさえ信じてくれないでしょう。そして「また、西川先生は夢みたいなこと言って」と心の中でつぶやくはずです。でしょOB各位。でもね、思い出して、私が「○○である」と言うときには、ちゃんとした理論データを、皆さんの後輩が既に出していることですよ。そして、それがどんなものであるかは、皆さんが知っているでしょう。皆さんが証明したことは、おそらく多くの先生にとっては、「火星人がいる」と同じ話に見えると思います。どんなデータで皆さんは、それを証明しました?それと同じデータ理論で皆さんの後輩が証明済みなことです。

 でも、まだ夢があります。「どんな教師でも、数日で『学び合い』を理解し、実践できるようになる」、「どんな学校でも、1ヶ月で全教師が『学び合い』を理解し、実践できる。」ということです。この実践できるとは、上記で書いた「火星人がいる」というレベルと同じぐらいに思われることです。単に、子ども達が一生懸命に話し合って、クラスの平均点が数十点あがる程度のレベルの低い実践ではありません。「ほら、バカみたいな夢を言っている」という声が聞こえます。でもね、夢があるから、現実に出来る。その夢があるから、我が研究室は数年のレベルで驚異的な進歩も出来る。私には上記を出来るような気がします。

 さて、上記を書きながら、気づきました。そんな「火星人がいる」レベルのことが書いてある本が、一定数、つねに売れ続けていることにビックリします。だって、ゼミ生であっても、ゼミOBでも飲み込むのは辛い内容を、身銭を払って買っていただいている。あ、そうか、そうだった。我々が学術的に実証していること、しようとしていることは、我々の専売特許ではない。それに近い実践をしていること、また、それを願っている教師は少なくない。そういう人が買ってくれるんだ。あ、そうか、そうだった。そういう人がこのブログを読んでくれるんだ。

 みなさんへ、

 本年度かおそくとも来年度までに、「特別支援の子どもの過半数を、簡単に問題ない子どもに出来る」、「子どもが指導要領を読み込んで、教師から観ても妥当な評価観点を作り、自己評価する」、「子ども達が数ヶ月にわたって単元計画をして学習を進める」ということを書いてある本をを出版します。そして、「どんな教師でも、数日で『学び合い』を理解し、実践できるようになる」、「どんな学校でも、1ヶ月で全教師が『学び合い』を理解し、実践できる。」を出版できるよう願っています。

[]補足の補足 18:26 補足の補足 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 補足の補足 - 西川純のメモ 補足の補足 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日の「補足」を補足します。

 『数学の点数が80点は、数学の点数が60点より良いと「本気」で信じている』ひとは、『自ら管理する集団内部において「序列」を導入する人』になるかを説明します。

 それは、数学の80点の人の方が、数学の60点の人より優れていると思ってしまうからです。少しでも、その気持ちがあると、表情、口調、間・・色々な所に現れます。そうなると、子ども達も、80点の人の方が、60点の人より優れていると思ってしまいます。優れているというのは相対値ですので、全ての人が「優れている」という評価を得ることが出来ません。それ故、競争が生まれます(詳しくはブログ内検索でドイチェを引いてください)。だから、一度、そんな点数はどうでもいい、と思わなければならいと思います。

 その上で、クラスの達成度を示す指標として、拘わります。例えば、我々は「クラス全員が100点を取る」という普通の教師だった馬鹿げている課題を与え、「本気」でその達成を願い・信じます。この場合は、クラス全員に対しての課題です。それ故、「田中さんが百点で、鈴木さん百点で、太田さんが80点で、・・・」ということは気にしません。気にするのは「全員が百点か、否か」の一点です。教師の視野の中には、一人一人の比較はありません(もしくは押し殺すように自分に言い聞かせます)。

 そして高い点数を求める目的は、数学を分かること、国語を分かることではありません。その点数に現れる、一人一人の学ぶ意欲、一人一人が学びたいと思ったときに得られる個別対応、そして、一人一人の人格の完成です。教師が、一人一人を観なければならないという呪縛数学国語は学ぶ価値があるとする呪縛から、一度、離れなければ、一人一人の、数学国語学習は成り立たないと、私は信じています。

 私とは違った立場の方もいるでしょう?その方に、いつも聞く問いは二つです。

 第一は、「一人一人を観なければならないのですか?結構ですね。で、それで一人一人を観ているのですか?」という問いです。大抵の方は、「いえ、それは無理です」と応えます。そこで、「じゃあ、どれだけの時間、一人一人を観ていますか?」と問いかけながら、授業時間÷クラスの人数の計算をします。でも、大抵の方は「それでも、出来る限りするべきだ」とお考えのようです。そこで、我々のデータを示しながら、『学び合い』で本当の一人一人に対応した教育が成立していることを示します(例えば『「勉強しなさい!」を言わない授業』(東洋館)で紹介した事例を示します)。

 第二は、「じゃあ、どの教科、どの単元でも結構です。具体的な内容を挙げて、それを学ぶ必然を説明してください。」と問います。どんな内容を挙げても、小中学生も分かる根拠と論理で論破出来る自信があります。私が定時制高校子ども達にやられたことを思い出せば、チョロいモンです。これをまともにやると反応は二つです。論破されて、感情的になる方がいます。これはしょうがありません。論理と納得は別物ですから。もう一つは、「では、学校教育意味がないというのですか?」と聞かれます。その場合は『学び合う教室(東洋館)』の第1章で語ったことを、たっぷりと議論します。

[]春の味の最後 16:46 春の味の最後 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 春の味の最後 - 西川純のメモ 春の味の最後 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ワラビ取りに近くの山に家族で行きました。行ってビックリです。いつもより2~3週間ぐらい早い感じです。ワラビは開いているものが多いです。この冬は雪が少なかったためと思います。だめだな~と半ばあきらめていましたが、いつもの場所に行くと、そこにはありました。ホッとしました。帰宅後、重曹処理して、明日食べたいと思います。

[]補足 16:47 補足 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 補足 - 西川純のメモ 補足 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『数学の点数が80点は、数学の点数が60点より良いと「本気」で信じている』と、おとといのメモに書きました。補足したいと思います。

 私は定時制高校オール1の子ども達、暴走族子ども達に物理学を教えました。その際、「何で物理なんか勉強するんだよ~」と言われ続けました。おそらく理科教育学で言われている、ありとあらゆる学ぶ意義を語り尽くしました。全て論破されました。それも、とてつもなく単純な理屈です。私は理科教育学会から学会賞をいただきました。理科教育学限界を強く感じる経験です。結局、私は理科という内容で説得は不可能だと悟り、面白い授業、分かりやすい授業、子どもとの人間関係、そして私のカリスマ性で、「何で物理なんか勉強するんだよ~」と言われなくしました。でも、それを問われたら答えられませんでした。

 しかし、『学び合い研究によって応えが分かりました。つまり、理科という内容で説得するのではなく、何故、学校教育があるのかというレベルでしか応えられないということを理解しました。だって、多くの教師が目くじらをたてて大事だと思いこんでいるどんなことでも結構です。それが分からなかったら、出来なかったら、その人の人生は駄目になりますか?ナンセンスです。極論すれば、数学を全く出来なくとも、国語が出来なくとも、学校教育目的である人格の完成は成り立ちます。という覚悟が必要だと私は思います。

 しかし、だからといって、数学国語を学ぶ必要性は無いという立場には立ちません。だって、人格の完成を「鼻くそのほじくり方」で学ぶより、人類数千年の成果である数学国語などで学んだ方が良いに決まっています。そして、その達成度を非常に分かりやすく示す指標が点数なんです。だって、「自然を愛護する気持ち」では分かったようで、分からないですよね。そして、子どもが分からない目標は、絶対に達成できないと我々は考えています。

 それ故、個々の教科、個々の単元、個々の内容に、拘りません。しかし、教科学習を通した全人的な人格の完成には拘ります。だって、学校教育の圧倒的大多数は教科学習の時間で占められています。それ故、教科学習で人格の完成をしなくて、いつやるんだ!と強く主張します。

 かっての教育史をひもとけば、学ぶ内容を重視する実質陶冶と内容を操作する能力を重視する形式陶冶の論争があります。しかし、我々は人格の完成に向けて実質陶冶と形式陶冶が無矛盾でなりたつとき、その時のみに、実質陶冶も形式陶冶も成り立つと考えます。