■ [映画]ゲド戦記
買い物で電気店に行ったら、スタジオジブリから、「ゲドを読む」という無料の本がもらえるとの張り紙があった。早速もらって読んだ。無料とは思えない質の高さだった。が、しょせん無料である。当然、「ゲド戦記」のDVD販売を盛り上げようとする広告である。そして、提灯記事がある。その中で、ゲド戦記は宮崎吾朗監督の日本的な解釈によるものであるので、原作になじんだ人からの反発はしょうがない、というような内容の記事があった。残念ながら、この方はアニメファンではないのであろう。この作品が駄作なのは、解釈とか思想のレベルの問題ではない、画像が平板で面白くないのである。ただし、画像が平板で面白くないというのは、決して1分あたりの原画の枚数で計れるものではない。
例えば、「紅の豚」の一場面では、銃口のレンズに逆に写る少女の絵がある。銃口は殆ど気づかれないほど小さい。そんなところに凝っても、物語には影響はない。また、「うる星やつら」の「ビューティフルドリーマー」の一場面では、みんながビックリしてぶっ飛ぶ場面がある。それを遅送りにすると、何か気になるものが画面を横切る。しかし、その段階ではなんだか分かりづらい。苦労して、その場面をストップで捉えると、それはストーリーと無関係な鉄人二十八号であることに気づく。こんな所に凝っても、アニメオタクしか気づかない。じゃあ、何故、そんなところに凝るのか?
映画監督は実に多忙である。どう考えても、「ここで鉄人二十八号を飛ばせろ」とは指示しないだろう。もしかしたら銃口に写る少女は絵コンテで指示があったかもしれない。しかし、そのディテールの指示はなかったと思う。では、だれが、そんなことに書き込みをしたか?それはスタッフの誰かである。そして、何故そんなことをしたか?そりゃ、その作品は自分の作品だと思い、その中に自分の足跡を残したいと思ったからだろう。法隆寺の屋根裏には、名もない職人の署名が書かれていたと聞いた。それと同じである。ゲド戦記が駄作だと、「私」が思うのは、そのような厚みを感じないからである。
『「座りなさい!」を言わない授業』に紹介した桐生さんの研究に、二種類の班の発表を紹介している。そこに示されているように、自分の作品と思わないと、人はその発表に興味関心を示さなくなる。おそらくゲド戦記のスタッフにとって、ゲド戦記は宮崎吾朗監督一人の作品と捉えられていたのではないか?そう想像しても無理はない。全く違った畑の人が監督に抜擢され、その人が宮崎駿監督の子どもであれば、「親の七光り」と興ざめすることは想像に難くない。
ゲド戦記はジブリ作品の中で突出した駄作である。しかし、その責任は宮崎吾朗監督にあるというより、彼を抜擢したジブリ幹部に第一の責任がある。宮崎駿監督は、最初は反対したと聞いている。しかし、最後はそれを飲んだ。アニメ作品が集団作品であることを熟知しており、そして、宮崎吾朗氏の監督就任を拒否できた数少ない人である宮崎駿監督に第二の責任がある。