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2008-02-10

[]若い同志へ 19:33 若い同志へ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 若い同志へ - 西川純のメモ 若い同志へ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今年は若い人に『学び合い』を伝えたいと思っています。(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080102

 そこで、我がゼミ出身の二人の新採者に聞いてみました。いろいろ聞きましたが、その中で特に二つのことを書きたいと思います。

 若い人に伝えるために重要な点は何かと聞いたところ二人とも、「「学び合い」のとらえ方が人によって違う。『学び合い』の考えではないものが多い。もっと『学び合い』の本当の意味を伝える必要がある。」と答えてくれました。

もう一つは、一斉指導との関係です。一人は「自分が一斉指導もできないうちに自分よりベテランの人を巻き込むことはできない。」と応えてくれました。他方は、「一斉指導もできないうちに、『学び合い』でこんなことができます。と言っても、納得してもらえないと思う。」と応えてくれました。

以上に関して、「判別法」と「吉本の社長」という二つのメモを書きます。おそらくこのメモを読んでいる、若い人に『学び合い』を伝えたいと思っている同志に読んでいただきたい。君たちだよ~

[]判別法 19:33 判別法 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 判別法 - 西川純のメモ 判別法 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 “学び合い”と言えば、学力試験をボイコットした犬山市の実践が有名です。またT大学のS先生の共同体が有名です。おそらく方向性は『学び合い』と近いとは思いますが、基本的な考え方が全く異なっていますので、全てにおいて異なっています。その他、今までのグループ学習、共同学習、協働学習、協調学習、バス学習・・・の全てとも全く違います。一方、世の実践者の中には、我々の『学び合い』ときわめて近い考え方の方がおられます。そのような方の実践は「学び合い」の「ま」の字も言っていなくても、『学び合い』と近いものです。では、どうやって判別するか。本当は、いろいろと語り合うことによって、その方が学校教育の目的をどのように捉えているか、学習者の能力をどのように評価しているかを聞けばはっきり分かります。

具体的には、教科の学習を「基礎的な知識・技能」を目的としていると捉えているか、教科の学習は人格の完成を目的としていると捉えているかで分かります。もちろん、後者が『学び合い』の方です。ただし注意がいります。その方に「基礎的な知識・技能の獲得は重要ですか?」と聞いて、「それらは重要なことではない」と応える方と、「人格の完成を教科学習において実現するためには、基礎的な知識・技能を課題とすることは重要だ」と応える方がいると思います。後者の方が『学び合い』の方です。

また、子どもたちの能力がどれほどかを聞いたとき、個々の子ども(特に能力の低い子、学習意欲の低い子)をイメージして応える方と、学習者集団の能力をイメージして応える人がいます。具体的には、能力の多様性や学習意欲の多様性は理解しつつも、学習者集団の中で補い、高めあうと応える方がいます。後者の方が『学び合い』の方です。

 ただし、長く語り合えるとは限りません。極めて短時間で判別する方法もあります。第一に、教師の仕切る時間です。つまり、クラス全員が教師の話を聞くこと、また、見ることを期待される時間です。具体的には、演説や板書の時間です。これが1校時中に15分以上もあるならば、『学び合い』ではありません。ただし、「その15分の意味は?」と聞いてください。もし、「学校の方針が・・」とか「自分の能力がまだまだなので・・」ならば『学び合い』の方です。もし、「教材の構造が・・」、「子どもの能力が・・・」、「そこにこそ教師の能力が・・・」と応えられたら、『学び合い』とは無関係です。

 また、子どもたちが関わるときに、どのような限定をつけるかによって判断できます。『学び合い』では、「どのようなことを、いつまでに、全員が達成する」という縛りのみです。ところが「いつ関わって、いつ関わらない」、「どのように座る」、「だれとだれが関わる」と限定したとしたら『学び合い』ではありません。

 そして、分かりやすい数値データは、業者テストの最低点です。平均値ではありません。平均値を上げるならば、一斉学習でもある程度出来ます。しかし、最低点を上昇させる(当然、平均値は驚異的に上がりますが)ことが出来るのは『学び合い』のみです。

 でも、もっとも簡単で、確実な方法は『学び合い』の授業を一度でも見ることです。一度でも見れば、見間違うことはまず無いと思います。少なくとも、『学び合い』でない“学び合い”を『学び合い』に見間違うことはあり得ません。だから、是非、ライブにおいでください。

[]吉本興業 19:33 吉本興業 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 吉本興業 - 西川純のメモ 吉本興業 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 吉本興業株式会社を知らない人はいないでしょう。社員数は300人弱、抱えるタレントは約800人、資本金50億円弱、売上高は500億円弱の東証一部上場、大証一部上場の一流企業です。しかし、歴代の社長にタレントはいなかったと思います。そして、「漫才で飯を食べられないのに社長をやるなんて・・」と言う非難の声はなかったと思います。では何故でしょう。それは、タレントとしての職能と、社長の職能は全く別だと理解されているからです。実は、一斉指導で求められる職能と、『学び合い』で求められる職能は上記に比されると思います。結局、一斉指導では教師が一人で数十人の子どもの興味関心を維持し、話を理解させる能力が求められており、それは吉本興業のタレントが求められる能力と同じです。まあ、教材研究は漫才のネタ作りにあたります。一方、『学び合い』における教師が求めら得るのは社長なんです。従って、「一斉指導」の職能を伸ばした先に『学び合い』の職能があるわけではありません。しかし、学校にはタレントばかりで社長がいないとしたら、タレントとしての能力を求められてもしょうがありません。

 私はうまい授業をするには、それほど難しいとは思いません。詳しくは、「うまい授業」(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20071223)というメモに書きました。しかし、考えてみればゼミ生に対して、私がテクニックとして捨てた部分をトレーニングしていなかったと反省しました。ゼミ生に対して、これは今後やろうと思い始めました。あと加えるとしたら、「自分一人で教材研究しようとするな」も伝えようと思います。そんなことよりも教材研究の種本が世の中にいっぱいあるということを伝えたいと思います。ただし、それを読む必要がないことも伝えたいと思います。そんなの読み出したらきりがありません。まあ、百科事典を「あ」から読み出すのと同じで、馬鹿馬鹿しい。必要があったときに読めばいい。それに、何よりもいいのは、人から聞くと言うことです。先輩の作ったプリントを丸ごとコピーして使えばいいのです。若い教師には、余裕がありません。一ひねりしようとしたら、そのひずみは、別の時間に出ます。続けられないことは、やらない方が良い。まあ、それ以上のことがありますが、それは時間と手間と金がかかりすぎる。そして、タレントとしての能力は生まれつきの才能に依存する部分があり、それは努力で補うことは出来ません。でも、上記レベルことで、かなり、うまい授業はできます。

 そんなテクニックレベルのことより大事なことがあります。それは、先のメモに書きました。それは、

1)子どもや親のせいにしない。確かに、それが原因なのかもしれないが、それを言ってはおしまい。

2)尊敬すべき、先輩、後輩を捜し、その人といっぱい雑談をする。見いだす方法は、子ども「たち」に聞けばいい。

3)まねられるところはまねる。まねられないところは、まねる必要はない。今の自分のままで、出来る授業はある。

 です。実は、上記は上越教育大学の教職大学で私のやりたいことです。上越教育大学の教職大学院では臨床を大事にします。ただし、授業を見るだけの臨床であれば、それは現場に出れば数ヶ月で大学院時代分ぐらいは軽く超えることが出来ます。しかし、全ての子どもの声を丹念に聞き分析したり、自らの実践を時間をかけて分析し、改良すると言うことは現場では出来ません。それをやりたいと思います。『学び合い』における子どもの会話を丹念に聞けば、全ての子どもが一生懸命学びたがっていることが嫌でも分かるはずです。であれば、「1)」が成立することが出来ます。

 上越教育大学では現職院生さんと学卒院生さん、さらには学部学生さんが一緒に協働します。これを通して、年の離れた人と協働する経験を持つことが出来ます。現場では、管理職によっては職員同士の協働が成り立ちません。また、しがらみもあります。上越教職大学院では理想的な協働を実現します。そして、多様な教師の姿を見ることも出来ます。これによって2)と3)を成り立たせます。

 以上を通して『学び合い』の考え方を理解させたいと私は思っています。

 考えてみると、私の研究室では、後者の部分は十二分にやっています。ところが、学校現場で「とりあえず」もとめられることは、私が馬鹿にしているため殆どやっていませんでした。反省です。今後はやろうと思います。だって、そのレベルだったら、教材と指導法の底なし沼に落ち込まなければ本当に簡単ですから。

追伸 高校教師の時、私の落ちたのは、熱血と情熱という底なし沼です。親と家庭という流砂に絡め取られました。あ~。それに比べれは教材と指導法の底なし沼は罪が浅い。