■ [嬉しい]ライブ実況
本日、愛知で関西の学生さんのライブ参観がありました。その同志はブログをたてていません。そこで私がその同志のメールを公開します。(Iさん、早くネットに繋いで、ブログをたててね)読んでいて、「同志だな~」と暖かく感じます。
『いやあ,若いってすごい。いや,若さじゃないですね,熱意ってすごい。熱意?というか知りたい欲か。感心しきりでした(私が)。聞けば多くの方は西川先生の教えを受けているそうで,分かりたいと思って来てくださる方に伝えるのは簡単です。
朝1限前から始まって,5限終わりまで過ごしてもらいました。なじんで,感じていただけたのではないかと思います。5限後都合で中座されましたが,授業後また学校にわざわざ戻っていらして,それから2時間たっぷりお話されていきました。一番楽しんだのは多分私です。ありがたい。口下手な私ゆえ,すっきりさせてあげられたという気はまったくないですけど,同じ子どもたちを同じ目で見て同じ思いを深めてくれたみなさんに感謝です。
さて授業についてはみなさまからの連絡があることでしょう。そちらで情報収集を。
子どもたちはいつもどおりに精一杯に学んでいました。ただ,心に『学び合い』を,私たちの授業を,学生さんに伝えようという思いをもちながら。私が学生さんと教室に行ったときには朝の会がもう進んでて,そこの「今日のめあて」だったらしいです。帰りの会で子どもに聞きました。ですので学生さんたちはそこだけ知らない。くすくす。
6限に子どもたちに書いてもらった学生さんたちへの手紙に,「教師になったら,みんなが楽しく仲よく分かるようになるから,このみんなが分かる授業をぜひしてください」って書いてました。私の言いたいことは全部子どもたちが言ってくれます。底抜けの信頼を子どもたちは裏切りませんね。でも,同じだけの信頼を私は今日学生さんたちにもちました。いい1日でした。』
追伸 蛇足ながら・・・。この同志が我々の子ども観を共有していることを読めば分かりますよね。そして、朝の会の運営を読めば、学校観が共有されていることも分かりますよね。
■ [大事なこと]「考え」とその影
私はいろいろな形で『学び合い』を語ります。そして、ブログで書きます。しかし、その圧倒的なものは「考え」そのものではありません。しかし、多くの方には、どれが「考え」で、どれがそうではないか分かりづらいと感じました。改めて書きます。
我々の「考え」の根本は「学校観」と「子ども観」です。それ以外は全てそれから派生したものです。そして、その前提となっているのは、我々ホモサピエンスは言語という高度なコミュニケーション手段を使って集団を形成し、それによって数百万年の生存競争に勝ち残ったという歴史にあります。私は悩んだとき、このことを思い浮かべ「学校観」と「子ども観」に立ち戻って考えます。ゼミ生やOBの各位から、「ぶれない」、「判断が速い」と評価されているのは、この「学校観」と「子ども観」を純粋無垢に信じ切っていることに由来しています。「学校観」、「子ども観」がシンプルであるからこそ、ぶれませんし、判断が速いのです。
しかし、いろいろな先生方に相談されたとき「学校観」や「子ども観」を語ったとしたら、抽象論だと思われるでしょう。だから、具体的に例示します。でも、それは考え方を、その問題に投影した影であって実態ではありません。
同じ「学校観」や「子ども観」を共有していれば同志です。そして、それはどんな形になっても『学び合い』です。過去の西川研究室の本を読んでいただければおわかりいただけますが、同じ『学び合い』であったとしても、その姿は天と地ほどの違いがあります。でも、いずれの時代においても同じ「学校観」、「子ども観」を共有しています。
例えば、ギリシャ時代も民主主義はありました。近代の民主主義もありました。戦前のアメリカやオーストラリアにも民主主義がありました。でも、ギリシャ時代には歴然とした奴隷制度がありました。アメリカには人種差別があり、オーストラリアにはアボリジニへの弾圧がありました。では、ギリシャ時代の民主主義は民主主義ではないのでしょうか?それを言ったら、現代の民主主義だって1000年後の社会からは笑われるでしょう。ようは方向性が大事なのです。ギリシャ時代の人であっても、真の民主主義者であれば、現代を見れば、混乱はあるもののそれが正しい民主主義の姿だと理解できるはずです。
同じように、同じ『学び合い』の同志であれば、様々な実践を見たら同じ方向性を感じるはずです。それは必ずしも同じ姿ではないかもしれません。でも、方向性を感じるはずです。
じゃあ『学び合い』ではない“学び合い”との違い、また『学び合い』擬きとの違いはどこに現れるのでしょうか?それは「学校観」と「子ども観」に現れます。つまり、何をやっているかでは違いは分かりません。それを何のためにやっているかを議論したときに分かります。そして、その議論をしたときに、どれだけ旧来のしっぽをもっているかではなく、そのしっぽを後生大事にするか、捨てたいものだと考えるかです。
例えばです。例えば、私は「業者テストで100点をとる」ということを目標設定の例でよく語ります。でも、私にとってどうでもいいことです。というより本当は直ぐにでも捨てたいしっぽです。だって、学期ごとの目標を与えるレベルになってくると、指導要領のレベルが低すぎてしょうがありません(このあたりは難解でしょうが。すみません)。本当であれば、本来の学びのごとく、実際に意味のある課題を課題として学んだ方が良い。例えば、ヒルベルトの未解決問題を高校生に与えるべきだと私は本気で信じています。また、ガンの特効薬の開発を高校生に与えるべきだと本気で信じています。レトリックではありません。私の「学校観」と「子ども観」はそれを本気で信じているほどなんです。ところが、現実にはそれを殆どの方は信じられない。そして、現状の指導要領の縛りがそれを許さない。そして、結局、業者テストの圧力に負けている人がいる。また課題設定に悩み、いつのまにか旧来の「よい教材研究」の砂地獄に陥りそうな方が多い。だから、分かりやすい方便とした「業者テスト100点をとる」を説明しているに過ぎません。私は一般公立校でクロネッカーの青春の夢を課題を出す教師がいたら、私は「同志!」と呼びたい。
私は同志の方々に「学校観」、「子ども観」に立脚したいろいろな夢を語ります。例えば、「子どもが完全に企画運営する学校公開」、「教師用図書を子どもが改良する」・・・・です。同志であれば、「また西川先生が夢みたいなこと脳天気にやれやれっていっている」と思うかもしれません。でも、「出来たらいいな~」、「それをちょっとでも実現できないだろうか?」と思うのが同志です。逆に同志といえない学び合いもあります。例えば、子どもが課題解決をしている姿を見ても、「教師が教えるべきだ」と言い張る方です。同志ならば、子どもが課題解決している姿を見れば、自分もそうしたいと思い、その人の考え方を吸収しようとするでしょう。だって、そういう子どもを育てたいと思っているのですから。