■ [大事なこと]引き算
『学び合い』の研究をし始めて十数年。その間、自分の中にあるものを引き算する毎日です。今の考えに至るまで十数年かかっているのですから、なかなか分かってもらえないとしてもしょうがありません。
今まで数ヶ月かけていたことを、15分の指導を3回で出来ることを明らかにするのが最初の段階です。ところが、その15分の指導のうち、自己モニター以外は本質的ではないことを明らかにし、そして、その自己モニターも不必要であることを明らかにしました。つぶやき、とぼけ、教えない、という可視化は、いかにもテクニック的です。それが本質的には不必要であることも分かりました。毎年、毎年、「これで究極まで削りきった」と思いました。ところが、毎年、毎年、不必要な部分があり、「子どもが有能である」という十数年一貫したものが、いかに深い意味を持つのかに驚いています。
料理を美味しくするために、焼き・蒸し・煮ることをします。味付けもして、香辛料も加えます。たしかに美味しくなります。しかし、もし、その素材が本当に美味しければ、料理や味付けに力を尽くすのではなく、その素材を新鮮に、健全に食べられることの方が重要だと思います。
『学び合い』では、教師に感激で泣かせるような子どもたちの姿があります。それは、数百万年の人類の歴史の積み上げのなせる技だと私は思います。たった一人の知恵がどんなに凄くとも、人類の歴史の積み上げ以上のものはなしえないと思うのです。たしかに、それに加えることが出来るでしょう。しかし、それ以上に、子どもたちの中にあるものを出させる方が強力だと思うのです。少なくとも、教師が何かをして子どもがその通りに動き出しても、私は感激で泣けません。私が何度も感激で泣けるのは、教師が凄いことをしているのではなくとも、子どもが凄いことをやらかすからです。私はそれを通して、教師の愚かしさを学ぶことが出来たので、どうしても今の思考方法になってしまっているのです。