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2009-02-01

[]可愛いさかり 22:53 可愛いさかり - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 可愛いさかり - 西川純のメモ 可愛いさかり - 西川純のメモ のブックマークコメント

 子どもが生まれてから、何度も「今が可愛いさかりだからね」と言われています。しかし、その度に「これからもっと可愛くなります」と反論します。事実そうです。今日も息子と添い寝をしながら、「なんて可愛いんだろう」と思いました。赤ちゃんの時に比べて、ずんと可愛い!そういえば、群馬の会で色々な人に会いました。

 失礼ながら、可愛いと思います。昨年まで西川ゼミにいた現職院生が二人が来ていました。いずれもだいぶやせていました。「ほら~、大学院は楽だって言うことが分かるでしょ。優しい指導教員がいるからね」と言って、脇腹に触らせてもらいました。贅肉がずんと取れています。頭をナゼナゼしてました。本当に可愛い。私の二つ年下(つまり四十代後半)の元ゼミ生は、私に会うたびに、私に自慢をして、私が喜んで涙を流すのを見るのが楽しみのようです。ゼミ生は私が涙もろいことをしっているのでよくやりますが、同志の人もそれを知るとやり始める人がいます。人が悪いと思います。群馬の会を企画した人が、いろいろな自慢をし始めます。しかし、それをちゃんと聞かずに、直ぐにその上を私は期待します。その期待の言葉を耳を遮りながら、でも、それを期待している同志の顔は可愛いと思います。色々な年齢の人が、初々しく、自分の実践の限界を悩み、それを乗り越えている姿は、輝いています。

 群馬の会に集った、赤の他人、それも三十を超え、四十を超え、いや、私の年齢を超えた人を心から可愛いと思います。なれば、我が子を死ぬまで可愛いさかりと思えるのは、理の当然です。

[]一つの考え 09:27 一つの考え - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 一つの考え - 西川純のメモ 一つの考え - 西川純のメモ のブックマークコメント

 新任の同志から、「あなたは新任なんだから『学び合い』という一つに染まらずに、色々なものを学びなさい」と言われています、と聞きました。一部は正しく、一部は間違っています。

 もし、『学び合い』を立ち歩き自由で、教師の発言時間が短い学習と方法のレベルで捉えるならば、そりゃ、その一つに染まらずに多様な方法を得た方が良い。しかし、考え方のレベルで捉えるならば、私は一つに染まるべきだ、と思います。『学び合い』の考え方は、学校観と子ども観です。方法は、その考えを真正面に実現しようとした一つの姿にしかすぎません。

 例えば、「子どもは愚かだ」という考えに「も」染まるべきでしょうか?少なくとも、民主国家においては、それは違法だと思います。子どもも一人の人格の人格として認めなければならないと考えるべきです。例えば、市役所の窓口には、「な~んも」できない人が来ます。だからといって、「市民は愚かだ」と窓口の人は思うべきでしょうか?否です!自分と同等と認めて誠実に対応すべきです。ましてや、子どもを子ども達ととらえたとき、「子どもは愚かだ」という考えは、絶対に誤りです。

 次に、学校観です。圧倒的大多数の教育方法には学校観がありません。何故、それを学ぶかを無視し、とにかく、それを学ぶ方法を議論しています。それっておかしい。学校もそうです。国語を学ぶ意義、社会科を学ぶ意義はあっても、それが学校教育にどのように意味があるかが無い。それが端的に表れるのは、国語の先生と、社会科の先生で、教科のこと(つまり生徒指導関係ではなく)でともに話し合えるでしょうか?残念ながら、難しいでしょうね。

 私は最底辺の高校で教師をやっていました。そのような学校では国語の教師、数学の教師、体育の教師、そして理科の教師が授業のことを語り合えます。何故かといえば、その学校の教師は子どものことを考えているからです。でも、その子どものことと教科内容との関連はあまり考えません。つまり、「この学校の生徒には、理科のこの方程式はあまり意味がない」と私は思っていたのです。そして、授業より、授業の中に織り込む教科内容とは別個の説教(例えば、私が高校生だったときの思い出話)に重きを置きました。でも、それっておかしい!学校教育の目的があり、それを実現するために教科の目的があるはずです。しかし、今は、教科の目的(とかってに教師が思いこんでいる)があり、それを実現すると学校の目的が達成されると考えているようです。例えば、「科学的概念の形成」、「深い読み」、「社会認識の形成」を達成すると、何故、人格の形成がなされるのかを、その教科の専門家以外に説明できる教師がどれだけいるでしょうか?私が高校で教えた子ども達に対して、説明できる教師がどれだけいるでしょうか?我々は、それをすべきだと考えています。私は、そういう考えに、全ての教師は染まるべきだと思っています。

[]フリートーク 09:27 フリートーク - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - フリートーク - 西川純のメモ フリートーク - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』の会ではフリートークが良くやられています。一般の教員研修会にはない、素晴らしい「方法」だと思っています。しかし、方法にすぎません。その方法の背景には考えがあります。それは、講演会の後の「質問ありませんか?」では実現できない、濃密で気楽な議論の実現です。明らかに、一般の研修会より、多くの参加者は議論することができます。しかし限界があります。

 現在のフリートークは「ミニティーチャー」に近いものです。即ち、教え役を指定した方法です。でも本当は、教え役を指定せず、自然発生で生ずる関係のほうが望ましいのは当然です。つまり、だれがだれにも流動的だし、個々の関係においても教え/教えられが絶えず流動するのが望ましい。が、現状では方便としては良い方法だと私は思っています。

 私は自分が「教え役」をやっているときでも、きょろきょろと部屋の真ん中当たりを見ています。そこには「教え役」を承った人が一人もいない集団がいます。そこで話されている会話こそ、本当の会話だと思っています。

 『学び合い』の会において、『学び合い』のコアメンバーの数がもう少し増えて、そして「みんな」を実現することを課題と与えれば、本当のフリートークが生じるはずです。いや本当はもう既にできるはずなんです。そこで大事なのは、「教えて」という声を上げる側ではありません、「話しませんか」と声をかける側なんです。

学び合い』の成立の初期には分からない子は聞きません。まあ、極めて陽性の子どもは「教えて~」と声を上げられますが、そういう子どもは少ない。本当に助けを求めている子は声をかけられません。教師がその子に「だれかに聞きに行ったら」と提案してもあまり効果がありません。それを打ち破るのは教える側です。教える側が声をかけ、殻を打ち破る必要があります。しばらくすると教え/教えられる関係が流動化します。みんな、という課題がポイントです。

[]管理職の立場から 09:29 管理職の立場から - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 管理職の立場から - 西川純のメモ 管理職の立場から - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日のメモの続きです。『学び合い』を教師に強いるべきではありません。これって、子どもの『学び合い』と同じです。『学び合い』の初心者の方は、「さあ、みんなと話し合って」とか、「男女で話しあうんだよ」等の、関わることを強い、関わり方の方法を強います。でも、方法を強いれば、やったふりをします。そして、失敗します。

 では、どうするか。それは方法を強いずに、達成すべき課題を求めるのです。例えば、みんなが80点以上をとるというような課題を求めるのです。そして、点数が大事なのではなく、それを実現できる集団になったとき、それはどれほどの意味があるかを語るべきなのです。『学び合い』は強力です。人類の最高の戦略なのですから、教師がゴチャゴチャ方法を強いなくても、困難な課題に立ち向かえば自然と発生するものです。

 学校レベルで『学び合い』を取り組むことを考えている方に、強く提案します。『学び合い』を強いないでください。強いれば、方法のレベルでしか理解せず、そして「みんな」が徹底していなければ失敗する可能性があります。考えが分かっていない人に、『学び合い』が考えである、と言ったって禅問答みたいなものです。ただ、「全て」の子どもに基礎学力の保証と、安心できる学習環境の保証を求めて下さい。それは法で規定されていることですから。そして、それをしっかり評価してください。例えば、業者テストの最低点、そして不登校・保健室への不定愁訴率で評価すれば良いんです。6、7割の子どもが分かる学習法は山ほどあります。数人は不登校になってもしょうがないと諦めるならば簡単です。しかし、全員の基礎学力を保証して、一人も不登校を出さないことを実現するとした、そりゃ『学び合い』しかありえません。

 ただし、この評価は逃げ道がありません。ぬるま湯の評価になれている教師にとっては厳しすぎる。きつすぎれば追い詰めます。そこで「みんな」です。そうすれば、その方も分かってくれます。その教師が分かることは、その教師の課題であるばかりではなく、それ以上に職員集団の課題なのです。そして、方法を会得し、最終的に考え方を理解します。これって、子どもの『学び合い』で、最後まで抵抗する子どもがいる場合と全く同じですよ。