■ [大事なこと]縦糸と横糸
ある日、ある人との会話の要点を書きます。
教師と子どもとの関係(縦糸)がしっかり出来てから、子ども同士の『学び合い』(横糸)が出来る、とお考えの方は少なくありません。私もかつてはそう思っていました(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20030506/1172991527)。しかし、今はそう思っていません。そして、縦糸を作るには、教師の話術や教材の力などが必要です。そして、それがあった方が、無いよりも『学び合い』において有利であることは十分に理解しています。しかし、それが必須か?と問われれば、積極的に否定します。
理由は、「全ての教師がそれを得られるか?」と考えれば、否だと私は思っているからです。不遜ながら、私の話術並みの授業が全ての教師が出来るとは思いません。現在の講演では、意図的に挑発的な内容を織り込んでおり、腕もなまっています。しかし、今から十数年前の大学での初等理科教育法での講義、そして暴走族相手の授業の時の話術はかなり高かった。才能が必要でしょう。いや、それ以上に出会いが必要です。偶然に左右されます。私の場合は、少しでも手を抜けば授業が崩壊するような子ども達相手に授業をしなければならなかった。芸人修行の最高の場はストリップ小屋の漫才だと言われますが、そんな状態でした。そして、それだけだったら私は潰れていました。幸いに、最後まで親身に愚痴を聞いてくれる先輩教師「群」に守られていました。
では、現在の教師の現状はどうでしょう?年齢バランスの崩壊から、教師集団が形成されていません。つまり、教師教育における学校現場の教育力が低下しています。そして、昔と違って、その意味を理解し得ない書類の山、研修の山の中で、教師個人はゆとりを失っています。そのような中で、縦糸をしっかりはれる教師になれと言うのは酷です。
今まで縦糸を張るには教師の力量で貼っていました。しかし、『学び合い』では子ども達と一緒に作るのです。つまり、縦糸があり、次に横糸ではなく、縦糸と横糸が相互作用しながら形成されるのです。『学び合い』では教師一人の力量ではなく、子ども達の力量も期待できるので、より多くの教師が実現できます。
さらに、現状の授業の考え方では、教師は学年や教科の壁で分断されています。まあ、生徒指導では繋がることは出来るでしょうが、毎日毎日の教科指導で繋がることが出来ません。また、繋がることが出来たとしても、それは授業前後の議論を通してです。授業のその場で議論し、改善し、議論し・・・ということが出来ません。しかし、『学び合い』では、学年や教科の壁をとっぱらい、共に授業を創りあげることによって教師同士が繋がれるのです。
私は「一人も見捨てたくない」と志を立てて、『学び合い』に至りました。「分かる子が増える」とか「平均値が上がる」程度ならば、『学び合い』でなくても実現できます。教師に関しても同じです。「良い授業を出来る教師が増える」とか「教師の授業能力の平均値が上がる」レベルだったら、『学び合い』でなくても実現できます。でも、私は「教師を一人も見捨てたくない」ことに拘りたい。だから、縦糸を作るには、教師の話術や教材の力などが必要であり、それがあった方が、無いよりも『学び合い』において有利であることは十分に理解していますが、あえてそれを否定し続けているのです。
それが出来る人が、それを活用することは否定しません。しかし、それが実現し得ない、もしくは、実現するには多大なる犠牲が必要な人に、それが正しい道であると思わせることは否定します。そして、それを捨て去った先には、捨て去った教師だけが味わえる喜びがあることを語りたいと思います。
禅宗などのように、全ての人の中にある仏性を目覚めさせたいと願う宗教もあります。また、「善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや」と説く宗教もあります。私は現状の教師を全て救うには、後者のような考えしかないと思っているのです。
追伸 毎度のことながら、私は葬式仏教以上の宗教はありません。
追伸 現段階で『学び合い』の同志になられるかたは、謙遜されるかも知れませんが、縦糸をはれる方だと思います。若い方の場合は、早晩、貼れるようになれる方です。しかし、全ての人が自分と同じ才能と、それ以上に出会いを得られるとは思わないで下さい。もっと大変な教師は少なくありません。そして、みんなを忘れると結局、自分が潰れます。具体的に言えば、今から十年後に、今の自分の武器が武器にならなくなった時、生き残るための武器はネットワークであることをご理解下さい。