■ [大事なこと]いつまでたっても

同じことを何度も書きますが、今日も書きます。今後も書くでしょうね。
多くの人は、あることを学べば困らなくならない万能薬を探しています。例えば、「これを飲めば、どんなに食べてもやせられます。そして太りません」というような夢の万能薬です。この人は、自分でなにかすることを放棄し、何も考えず、何もしません。
別な人は、あることを学んで、効果がないとなれば、別な方法を探します。例えば、あるダイエット法をためしてみて、そこそこ効果があったが、しばらくすると駄目になる。そうすると別のダイエット法を試す。以下、その繰り返し。この人は、何かをしようとしていますが、考えることを放棄しています。
『学び合い』は有効です。でも、はっきりと断言します。いつまでたっても悩みはつきません。だって、我々は相手にしているのは人です。宇宙の複雑さに比すべき、複雑な人なんです。その人相手に、万能のことなんてありません。その場、その場で考え続けなければなりません。『学び合い』を分かると悩まなくなると言うことは絶対にありません。でも、『学び合い』を分かった人は、悩んだとしても、結局、『学び合い』しかないと気づくまでの時間が短いという特徴があります。
いろいろな同志の過去のを見るとそれが分かりますよ。
かくゆう私もそうです。偉そうに『学び合い』を語る私も、『学び合い』に反する行動をしますし、それによって失敗します。でも、駄目だ、と気づけば、何とかしなければなりません。最初は、自分の行動は『学び合い』として正しい、と自己合理化します。しかし、冷静に考えれば、自分の考えが『学び合い』の考えと反することをやっているためであることを認めざるを得ません。そして、自分の力は限界があり、集団の力の方が信じるに足ることを再確認します。そして、自分の出来ることは何かを考えます。結局、愚直に、『学び合い』の考えを語るしかないのです。
同志各位へ
悩むのはあたりまえ。問題は、解決策を小手先のテクニックに見いだすのではなく、自分の心に求めることです。子どもは教師のテクニックを見ているのではありません。腹を見透かしているのです。
■ [う~ん]いつまでたっても2

本日、学部生の授業をしました。授業といっても4人です。私の研究室でやる程度です。本日は九州への移動日です。やめようかとも思いましたが、午前中にやりました。やってよかった。とにかく楽しい!個人ゼミと同じで、とにかく学生さんが可愛いのです。私が誘導したい発言に陥って、それをからかい・・・・。まさにオーケストラの指揮者のよう。
もちろん、その先があることは分かっています。私のクラスである西川ゼミは『学び合い』です。しかし、大学の授業の場合、まあ、講演と同じ扱いで、従来型を楽しんでいます。
罪深いな~
■ [う~ん]マスゲーム

ネットサーフィンをしたらある学校の授業参観のまとめが載っていました。写真がいくつか載っています。最初の写真はクラス全員が先生の話を集中して聞いている姿です。次は、クラス全員が一生懸命に手を挙げている姿です。次は、指名された子が黒板を使って説明している姿です。次は、誰かが教師から指名されると、クラス全員が、その子の方を向いて聞いている姿です。次は、隣同士でペア学習をしている姿です。最後はクラス全員がまとめを書いている姿です。
日本中の圧倒的大多数の教師は、素晴らしいと思っている姿です。しかし、私にとっては暗くなり、吐き気さえ感じる姿です。どっかの国のマスゲームを見ているようです。民主社会における日本の学校において、何故、これが素晴らしい姿なのでしょうか?私には分かりません。数十人の個があることを私は知っています。それが一糸乱れぬ姿に統一されているとき、その個が抑圧されていることを知っています。
私には上記の6枚は以下のように見えます。
クラス全員が先生の話を集中して聞いている姿→会議において指導者の話を姿勢良く真剣に聞いている姿
クラス全員が一生懸命に手を挙げている姿→指導者が推戴されることを賛成する姿
指名された子が黒板を使って説明している姿→指導者が語ったことを、そのまんま政治的学習会で説明しているすがた
誰かが教師から指名されると、クラス全員が、その子の方を向いて聞いている姿→政治的学習会で、誰かが「熱烈に指導者の方針を支持する」と宣言しているのを、一生懸命に聞いている姿
繰り返しますが、こういうのを見ていると暗くなり、吐き気さえ感じます。私には『学び合い』のゴチャゴチャした姿の方がホッとする。