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2011-01-07

[]残念 09:15 残念 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 残念 - 西川純のメモ 残念 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私はネットサーフィンをしながら、『学び合い』を学びたい方を見つけ、声をかけます。それがきっかけで『学び合い』を学ぶ人もいますが、もちろん途中で放棄する方もいます。残念なことです。ま、周りの状況が変わればまた出会えると思います。

 ある方のブログを読んでいると、『学び合い』をテクニックとして理解しているために誤解しているな~っと思う内容でした。その内容を短くまとめると、「教育に絶対の方法は無い。自分のクラスだけ良くなればいいわけではない。だから多くの同僚に受け入れられない、際だった方法は駄目だ。」という内容です。これを読んで、三つ残念だと思いました。

 第一は、教育に絶対の方法は無いという主張ですが、それは『学び合い』が主張している内容なのです。ただ、その方は、そのクラスにあった絶対の方法は無いと思われているようです。が、その場その場でクラスにあった方法を教師が考えられるとお考えのようです。我々はクラスごとどころか、子ども一人一人にあった絶対の方法は無いと我々は思っているのです。だから、どんな方法でも、教師が一つの方法を強いるのは誤りだと考えるのです。

 『学び合い』というネーミングをつけたときから分かっていたことですが、『学び合い』を方法だと思う方は、立ち歩きや私語を多用する方法だと誤解されます。しかし、違います。『学び合い』では立ち歩くことや私語を禁止はしません。しかし、立ち歩けとか、私語をしろと強いません。我々が強いるのは、クラス全員が例外なく課題達成をしなさいという一点です。その課題を達成するとき、子どもたち(というよりホモサピエンス)の多くが利用する方法が立ち歩きや私語なのです。ようは、他者を利用するという方法です。

 さらに一見すると子どもたちは立ち歩きっぱなし、私語しっぱなしのように思われがちです。しかし、一人一人の行動を子細に記録し分析すれば、子どもたちが相談し合う時間は1校時中の6~7分程度です。つまり、三十分以上は自分で考えているのです。ただ、いつ自分で考え、いつ、そして誰と相談するかは一人一人違います。

 さらに、子どもたちが課題を達成する時に使う方法は一人一人違います。おそらく、たった一つのクラスにおいても、大きな本屋にあるその内容の教師用本に例示される方法以上の多様性があります。

 『学び合い』は学び合うことが目的ではありません。多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決することを全員(本当に全員)に求め続けるということです。そして、それが出来るとしたら、一人の教師ではなく、子ども集団であるという考え方なのです。決して立ち歩きや私語という方法でありません。

 第二は、「自分のクラスだけ良くなればいいわけではない。だから多くの同僚に受け入れられない、際だった方法は駄目だ。」という点が残念です。私も「自分のクラスだけ良くなればいいというわけではない」ということは全く賛成です。さて、多くの同僚が「今」受け入れられる道でそれが変わるでしょうか?私は無理だと思います。現状は、現メンバーの今の力関係の平衡点です。だから、全メンバーの現状の合意とは、今のままです。ある人が変えようと思っても、全員をかえることは出来ません。だから、学校は変わらないのです。と私は思っています。

 人類の歴史を思い出してください。今まで一度たりとも、全員の多数決で変革が起こったことがあるでしょうか?私は無いと思います。変革は、常に一部の人が始めます。その人たちの成果を横目で見ているうちに、徐々にそれに賛同する人が増えていきます。そして、一定の数になったとき、一気に変化起こります。それが急激で、暴力を伴ったときは革命と言われますが、そのようなものでない変革でも実質は同じです。その時点の全員の合意で変革は起こったことは一度もないと思います。

 これは歴史ばかりではありません。商品の売れ方も同じです。一度、ロジャーズの普及化理論をはじめとする、さまざまな商品の売れ方の理論を参照してください。

 もちろん、ブレイクスルーとなる新たな道は『学び合い』ではないかもしれません。でも、私は『学び合い』だと思います。

 私は現状の学校の問題の殆ど全ては職員集団の協働性の減少だと思っています。そして、それは校長が悪いとか、「お上」が悪いとか、手のかかる子ども・保護者が多いとかではないと思います。昔から無能な校長はいますし、無茶なことを求める「お上」はいますし、手のかかる子ども・保護者はいました。でも、職員集団で無能な校長をコントロールしていました。無茶なことを求められて手を抜いて良いところはどこかを先輩教師から教えてもらえました。そして、分からない機械の操作は若手が教えてもらえました。手のかかる子ども・保護者と思っていたのが、同僚と一緒に対応することによって、実はそれほどのことがない、それどころか協力者になってくれたのです。

 今、現状の教師に0.5%以上は心の病で休職中です。ということは本当は心の病で仕事が出来ない状態なのに、なんとか誤魔化している人はその数倍います。そして、その予備軍はかなりの割合を占めています。何故、そうなるのでしょうか?大抵、心の病で休職するということになると、「え?そこまで悪いとは知らなかった」という反応が多いですよね。なぜっでしょうか?それは、普段のコミュニケーション量が少ないからです。

 考えてみてください、普段あまり話していない人に、「実は、私、大変なんです。相談に乗って欲しい」と言えるでしょうか?ましてや、自己評価が低くなり、自分だけが駄目だと思っている状態だったら不可能ですよね。

 そういう人が相談できる状態とはどんなときでしょうか?私は、馬鹿話がポイントだと思います。当たり障りのない話、大笑いできる話題、そんな話題だったら話せます。そのような話を積み上げている内に、「あ~この人だったら、聞いてくれる」ということを値踏みしているのです。

 以前、子どもたちが仲良くなる過程を分析したことあります(『学び合い』は色々なことを調査しています)。最初は、子どもは独り言みたいなことをしゃべるのです。つまり、周りから無視されても傷つかない、ことを確認してからおしゃべりが出来るのです。さて、そのおしゃべりのジャンルは何がいいでしょうか?旅行の話ですか、趣味の話ですか?いいえ違います。それらは波長が合う人もいますが、合わない人もいるのです。何か、それは仕事の話なんです。考えても見てください。もし、職場の人と慰安旅行に行ったとします。そこで、懇親会の最初に幹事の人が「今日は仕事の話は抜きにしましょう」と言ったらどうなると思いますか?おそらく、5分もたたないうちにぎこちなくなります。同僚と話す最もいい話題は仕事の話なんです(これは子どもが勉強の話で、いままで疎遠だったクラスメートと話し続ける理由と同じです)。

 でも、自分のクラスの子ども、相手のクラスの子どもだけでは駄目ですよね。その点、中高の先生方の場合は子どもの話が出来ます。でも、学習指導の話ではなく、生徒指導の話になってしまいます。国語の授業の話を数学の先生に話してもしょうがない、と思っている先生が大多数です。

 ところが異クラス、異学年、異教科の『学び合い』はそれを乗り越えることが出来ます。そして、その場で色々な発見を互いにするのです。だから、その事を通して雑談がいっぱい出来るのです。全校『学び合い』をやった校長先生が話したことですが、それをやると先生方が教務室にいる時間が驚異的に長くなるとおっしゃっています。

 ま、信じられないと思いますが、見たければいつでも公開しています。それより素晴らしい道が、全員が「今」納得できる方法で実現できるなら教えて欲しいです。

 さて、最大の残念なのは第三の点です。それは、上記に疑問があるならば何故、私に議論をふっかけなかったのでしょうか?私は『学び合い』に対しての疑問に対しては、ちゃんと説明します。そもそも『学び合い』が直ぐに分かる方が「変」だと思っているのです。私だって、二十年間つきあっているから血肉のようになっていますが、二十年前の私が今の私の言っていることを聞いたら「変」だと思います。

 私は、大人の議論が出来る方だったら、いつまででも議論し続けます。それによって学びたいと思っています。そもそも『学び合い』は基本の考え方は揺らぎませんが、その姿は毎年毎年、ビックリするほど進化しているのですから。

 おそらく、私が『学び合い』のことを書くことを読んで、「自分だけが正しくて、あとはみんな駄目だ!」と思っている高慢なやつだと思っているのかも知れません。でも、それぞれの人が、自分なりに正しいと思うこと信じることは当然であり、悪いことではないと私は思います。ましてや、『学び合い』がかなりラディカルですので、それを信じられないのは当然で、信じている私の方が変わっているという自覚もあります。

 しかし、違った考えを持った人どうしが、大人の議論をすることは有益だと思っています。集団が等質になったとき、その集団は時間をかけて死滅することは定めです。常に、異質を求め、取り込みながら成長したいと願っています。さらに、私がイヤだったら、別の人に議論すればいいだけのことです。

 さて、私が残念だと思うのは、何故、その人がそうしないのでしょうか?ということです。きつい言い方ですが、「自分だけが正しくて、あとはみんな(特に私は)駄目だ!」と思っているということです。もちろん、本性としてそうだとは思いません。おそらく、それをやれるだけの余裕がないのだと思います。だから、自分で何かをしようというのではなく、みんなが合意できるそこそこのことでやろうと思っているのだと思います。これを乗り越えるには、『学び合い』を分かってくれる人を増やすしかないと思います。

追伸 なお、バカ、アホ、おまえのカーサンデベソレベルの議論をするかたとは議論できません。私はそれほどタフではありませんから。