■ [嬉しい]気概
本日、ある先生のメールに以下がありました。とても素敵です。
『私は、時々、「野口芳宏先生や、有田和正先生が亡くなるとき、その才覚を譲ってくれないかな。」などと、実に不謹慎で馬鹿げた妄想をしてしまいます。自分は、教師としての腕は、そういうスーパーティーチャーには勝てそうにありません。ですが、学級の姿としては、負けるつもりはありません。』
目的と手段の違いをちゃんと分かっている方だと思います。我々の仕事は、スーパーティーチャーになることではありません。子どもたちを大人にすることです。
■ [大事なこと]私が恐れること
私が頑固である理由を書きたくなりました。
今の段階で『学び合い』を取り入れようとする方は、ちゃんと学び実践するレベルの方だと思います。なんとなくで始めるような方は無いはずです。おそらく、『学び合い』を知り、それを実践するか大いに悩み、自分を納得するために勉強された方です。
が、次の段階になると、その抵抗感が低くなります。色々なところで耳にして、人からまた聞きのレベルで「教えなくてもいいんだ」という典型的な誤解で実践するような人が生まれるでしょう。それよりも多いのは、『学び合い』を方法レベルで始め(これはしょうがないことです)、それを正される機会もなく、それが『学び合い』だと思い続ける人が誕生することです。
これがとても恐ろしい。以前、ある学校で「西川先生直伝の『学び合い』」と銘打って、悲惨な「な~んちゃって『学び合い』」を見たことがあります。だから、私は頑固に『学び合い』のセオリーを主張し、「な~んちゃって『学び合い』」や従来指導型『学び合い』と『学び合い』の違いを言い立てるのです。
正直、この役割って嫌なんです。だって嫌われる役回りですから。「な~んちゃって『学び合い』」や従来指導型『学び合い』を『学び合い』と言った方が楽です。『学び合い』と従来型は足して二で割れると言った方が楽です。でも、それが出来ないから、損な役回りをしています。
http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20030829/1172971923
■ [大事なこと]方法を強いる
本日、以下の質問メールが来ました。多くの方に関係する質問なので、アップします。
『 ご多忙のところ,失礼いたします。 私は,●●小学校に勤務しております●●と申します。間もなく,教員生活満10年を迎えます。
私が,『学び合い』を始めたのは,小学校6年生の3学期2月下旬という,土壇場でした。第1時目の国語の授業で,早く も鳥肌が立つほど感動しました。今では,『学び合い』をもっと早くやっておくべきだった,と後悔しています。
私が今まで,「分かっていても手を差し伸べきれずにいた子」の周りに,子どもたちが自然と集まり学び合う姿を見ていると,自 分の心情をどう表現すれば良いのか分かりません。ただただ,感動と,自責の念とが入り混じっています。
今までの私は,そこそこ頑張っている教員だったと思います。
大学新卒で新採用になってから,「少しでも良い先 生に」と思って我武者羅に仕事をしてきました。2割の児童は私のことを大変に慕ってくれて,6割の児童はまあまあ好いてく れて,残り2割は見捨ててきた。これが,私の実感です。
これ以上,見捨てたくない。そう思って,これからも『学び合い』を続けていきます。
さて,前置きが長くなってしまいました。申し訳ありません。
これから『学び合 い』を続けていくに当たって,質問がございます。
『学び合い』実践者の先生方のブログやツイートに「●●」が度々登場します。
「●●」の思想やStyleが,『学び合い』と非常に近いように思いますし,相性が良さそうです。私はもともと,「新しい指導法に飛びつくのが大好き」な質でもあります。
ですので,「●●, やってみようかな」という思いがムクムクと湧き上がっています。 が,一方で「ちょっと待てよ」とも思うのです。
私は
「『学び合い』は,方法を語らない。あくまで目標を語るのだ。方法は児童が決めるべき。」
と理解しています。手引きにも明 記されていますよね。
ならば,何かを話し合い,子ども達が結論を出すことが目標であるなら,●●であろうとなかろうと構わないのではないか,とも思うのです。
それが本当に児童にとって有効で必然性のある方法な ら,自然とそういう形になっていく可能性はあります。
例えば,
「ちょっとさ,ゴチャゴチャしてきたから,みんなの考え,紙に書こうよ。」
「違う班の意見も聞きたいから,移動しよう」
というように,●●的な活動が生まれる可能性は大いに予想されます。私のクラスでも,散見されます。だったら,こちらが「●●」を強いる必要がないようにも思うのです。
加えて,授業者が「○分経ちました。移動します。」とやってしまったら,児童にとって相性ピッタリの組み合わせを,知 らぬ間に引き裂いてしまう危険性はありませんか。
「先生,次はどうするんですか?」と聞かれちゃいませんか。
●●のやり方を説明しておいて,「やってもやらなくても良いよ。」というのも駄目ですよね?担任がそんな ことを言ったら,腹を読んで「先生は,やって欲しいんだな」と見抜かれそうです。
無駄なことを長々と書いてしまって申し訳ありません。
私の「●●をやってみたいんだけど,それだと『学び合い』を邪魔してしまうんじゃないか。」という心のモ ヤモヤを伝えようとしたら,このようなモヤモヤとした文になりました。
●●という手法に限定してではなく,『学び合い』全般において「限定した手法で話し合わせることの是非」を ご教授して頂けますよう,何卒お願いいたします。』
私の返答は、以下の通りです。
ご自身で質問し、ご自身で答を出しておられます。
ご名答です。
結局、何かの方法を子どもに課すというのは、子どもの能力を信じ 切れず、逆に、自分の能力を過大評価している現れです。
最初にあって、その場で『学び合い』をする、『学び合い』会での模擬 授業や飛び込みの模擬授業では「セーフ」ですが、クラスづくりをしている自分のクラスでやるとしたら「アウト」です。
これは可視化をいつまでも続けたり、机間巡視で個別指導するのも同じです。
教師が方法のレベルのサポートをすることは良いことだと思い がちです。
だって、子ども同士のサポートがあり、さらに教師のサポートがありなんですから。
でも、違います。教師が サポートし始めると、『学び合い』で中心になるべき子どもが手を抜き始めます。そして、ものを考えなくなります。つまり、教 師が何かをすると言うことは子ども達にとってマイナスなんです。このことが中々分からない。そしてそれは先に書いた、子どもの能力を 信じ切れず、逆に、自分の能力を過大評価している現れなのです。
これをやりはじめると、『学び合い』が停滞します。それで焦って、さらにテクニックを加え、停滞し、さらにテクニックを加 え・・・・。負のスパイラルに陥ります。
もちろん、本当に優れた教師の場合、サポートしつつうまくいく場合もあります。でも、その間合いは微妙なんです。多くの教師はすべきではありません。
でも、逆に、何もしないという誤解をされる方がおられます。
そうなると、何かクラスでひずみが生じても何もせず、問題が大きくなります。
困ったことです。私が控えるべきだと言っているのは方法のレベルのことです。ところが今までは教師の仕事はそれのみだと思っている人 が多いので、それを控えるべきだというと、イコール、何もしないと誤解してしまうのです。
教師の仕事は目標の設定、評価、環境の整備です。そちらは十分にしなければなりません。特に、何を目指すべきか、何が良いことで、何が悪いことかをちゃんと語り、語 り続けることは大事です。
方法のことで頭を使うぐらいだったら、そちらに頭を使うべきです。
『学び合い』を始めるのは何月、何日でもOKです。例え、1週間であったとしても、その子たちにとって意味あることです。で も、自分の目の前にしている教え子のことを本当に考えるならば、何をすべきかは明確です。広げて下さいね。したたかに。
追伸 職員室で可視化をしている校長を想像して下さい。また、何らかのメソッドで職員会議を進めている校長を想像して下さい。噴飯ものでしょ。あれです。校長の仕事はそんなことではない。教室における教師もです。ま、一般の先生は「子どもと職員は違う」という極めて非『学び合い』的発想で合理化するでしょうね。