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2008-11-24

[]考え方を考えて下さい 00:35 考え方を考えて下さい - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 考え方を考えて下さい - 西川純のメモ 考え方を考えて下さい - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』は考え方で、指導法ではありません、と何度も強調します。でも、考え方である点は、『学び合い』の専売特許ではありません。「あまり考えない」という考え方も含めれば、ありとあらゆる教育理論や教育運動には「考え方」があります。このブログをお読みの方は、既に二三の、いや、それ以上の教育理論や運動に関わった方も多いと思います。是非、考え方のレベルで思い出して下さい。

 視点は、学校観と子ども観です。何のために学校教育があるのか、というのが学校観です。それは何だったでしょうか?明示的に明らかにされている場合もありますが、そうでもない場合があります。でも、ちゃんと考えられているならば、そこに参加している方々の間であれば共通するものがあるはずです。それが、あまり考えていない、というものもあります。この場合は、指導要領に定められた内容を正しく学ぶというのが学校教育の存在意義だと考えていると考えて良いでしょう。

 私が考えて欲しいのは、その「学校教育の意義」を子ども達に語って納得させられるか?ということです。特に、教師が手を焼いている子どもに対してです。その子はしょうがない、と切っても仕方がない、とお思いならばしょうがありません。我々の場合は、そうは思っていません。私は暴走族をはじめとした様々な子どもに出会いました。私の知る限り、『学び合い』の学校観以上に説得力のある学校観を知りません。それ以上のものがあれば、直ちにそれを受け入れたいと思います。

 世の中には、そのような学校教育の意義が無くても一生懸命勉強する子どもがいます。現在の学校教育にフィットした子ども達です。でも、その数は教師が思うほど多くはありません。私が高校で教えた子どもほどハッキリと表明しないだけで、腹ではそう思っています。残念ながら、教師とは、その希な子どもが大きくなった大人が多く含まれているため、学校教育の意義がどれほど大事かを意識せず、指導要領に定められた内容を学ぶことに疑いを持ちません。ちなみに、私自身がそういう大人でした。ただ、私は高校教師の時、そうでないことを子ども達に教えてもらいました。その経験がなければ、子ども達の「分かったふり」、「おもしろがっているふり」に騙されてもしょうがありません。だって、迫真の演技ですから。

 第二の視点は子ども観です。子どもとはどんな存在だと思っているか、様々な教育理論や教育運動を思い浮かべて下さい。子ども達は、愚かにもなり、有能にもなります。教師がどのように接するかによって変わります。おそらく、前者の場合は、教師は「親」になろうとしているだと思います。親なれば、保護したいという気持ちは当然です。でも、「なれるのでしょうか?」と問いかけたいと思います。我々は「無理だと」思っています。このことは単純な算術計算で導かれると思います。つまり、一人の子どもに、親として接することが出来る時間はいくらか?ということです。もちろん、特定の子どもの親にはなることは単純な算術計算でも可能ですが、それは、他の圧倒的多数を「捨てる」ことを意味しています。

 我々の場合は、親にはなれません。しかし、全ての子どもの幸せを願っていて、一人も切りたくないのです。どうしたらいいか?その応えは、教師は親ではなく上司となるべきだと考えています。そして、クラスは家庭ではなく職場になるべきだと思います。そう考えれば、子ども達は極めて有能な存在です。

 少なくとも私には、『学び合い』以上の考え方を知りません。あるならば学びたいと思います。そして、納得したとたんに、直ぐに『学び合い』を改良するか、捨てます。ただし、私が納得するには、現在捨てられている多くの子ども達を含めて全ての子どもが救われるか否かの視点で見ます。

 私が本に書いてあること、手引き書に書いていること、ブログで主張していること、これらは全て学校観・子ども観の必然です。私は班を教師が作ることは好きではありません。なぜなら、学校観・子ども観に反するからです。でも、教師が班を作ることも「あり」だと思います。でも、その場合は、その人の学校観・子ども観とは何かが問題です。これは、立ち歩き・私語の是非、まとめの有無、教師の発言時間の長短・・・・も同じです。それらは全部、考え方の影に過ぎません。

 人への説明のために、それらを語ります。少なくとも、今現在の知見の中で、最も『学び合い』の学校観・子ども観にフィットする具体例として語ります。でも、それは例に過ぎません。唯一だなんて思っちゃいません。第一、現在の例は、過去に捨ててきた例の上に積み上げてきたものです。今、挙げている例は、5年後には噴飯もののパロディーになっている可能性は否定できません。そのころ私は、今の例を「子どもを信じていない例」としてあげる可能性は十分にあります。あはははは。でも、その頃においても学校観・子ども観は不動だと思います。だから『学び合い』は考え方だと強調しています。

[]違い 17:13 違い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 違い - 西川純のメモ 違い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今までにも何度も、何度も「学びの共同体」と『学び合い』との違いやつながりは何か?を聞かれました。本日もメールで聞かれたので、ちゃんと応えたいと存じます。ただし、以下で書くことは「同じ/違う」ということを伝えるのであり、「善い/悪い」、「優れている/劣っている」を書いているわけではありません。同じ子どもや教師を見たとしても、理論が違えば、違って見えるものです。と、いうことです。

 まず、二つの考えに関連があるかといわれれば、直接はないと思います。「学びの共同体」の主導する方々の目に、田舎大学の四十歳代の大学教師の研究がふれるとは思えないのです。私の方は、勉強不足で恥ずかしながら知りませんでした。アドラー心理学も「学びの共同体」も我々の本を読んだ現場の先生方より、「関連ありますか?」と聞かれてから読んだぐらいです。でも、おそらく「学びの共同体」も『学び合い』も参照する理論には共通する部分があります。例えば、教育を学校教育の中に閉ざしたものではなく、本来の人間の営みであるという理論はともに参照しています(例えば、正統的周辺参加など)。だから、両方とも人間関係のためとか、学力向上のための目的の手段として、子どもたちが関わることを利用しているわけではありません。子どもたちが関わることこそ、教育の本質であるという考え方は一致しています。だから、『学び合い』の学校観は「学びの共同体」とほぼ一致していると「勝手に」解釈しております。

 しかし、子ども観は決定的に違うと思います。つまり、「学びの共同体」は他の一斉指導と同様に、基本的に子どもたちは教師の手助けがなければ出来ないという考え方です。ところが、『学び合い』では目標の設定や評価・環境の整備は教師しかできないが、学習自体は子どもが教師の手助け無しで出来ると考えています。それだけの能力があると考えています。

 その違いがあるため、現象的に様々な違いがあります。「学びの共同体」では、「机をコの字に配置する」、「教卓は教室の後ろに置く」、「教師が子どもたちの会話を紡ぐ」などが行われることが多いようです。いずれも、「教師」がそういう方法を定めた方が善いと考えているからです。ところが、『学び合い』では基本的にはそういうことをしません。なぜなら、一人一人の子どもにとって最善の方法を考えられるのは自分しかないのだから、そんなことを教師が分かるわけないし、ましてや一律に決められないと考えます。

 ちなみに『学び合い』を実践している方々においても、様々な方法を子ども強いる場合はあります。ただし、「それは対処療法であって、自分の力が無いからそうせざるを得ないんだ」と考えるのは『学び合い』です。一方、「そのような方法を考えられるのこそ教師の職能だ」と考えたとしたら、それは『学び合い』ではなく一斉指導であり、まあ、「学びの共同体」だと思います。これは教師が方法を強いる時間が長いか、短いかの違いではありません。方法を強いる時間が短くとも「そのような方法を考えられるのこそ教師の職能だ」と考えてそのようにしているならば、『学び合い』ではありません。だって、そういう風に考え始めれば、いつの間にか一斉指導になるのは時間の問題で、あとは授業方法の一つとして『学び合い』もどきが残るだけです。一方、教師が方法を強いる時間が長くとも、時にはそれは授業の全てであったとしても「それは対処療法であって、自分の力が無いからそうせざるを得ないんだ」と考えているならば『学び合い』です。そう考えていれば、本来の姿に進みますから。

 さて、何故、子ども観に違いがあるのでしょうか?いくつかの違いがあります。

 第一に、子どもの多様性をどれだけと見積もるかです。古典的な一斉指導では、子どもの考え方は「正解」と「誤答」の二つです。残念ながら、そのような枠組みの理解の先生方は少なくありません。しかし、現在主流になっている、学習者が主体的な存在であると考える学習者観では正解にも誤答にも複数あると考えます。しかし、その数はせいぜい2、3種類程度です。なぜなら、多くの教師や研究者は、教師が教えるという前提で物事を見ます。従って、実際にはものすごく多様であることを気づいているのですが、そんなことを認めたら何も出来なくなります。だって、一人の教師が教えられることはせいぜい2、3種類なのですから。そのため、無理矢理にでも数少ないパターンに分類します。

ところが、『学び合い』では教師が教えるという鎖につながれていないので、子どもの多様性を素直に認められます。そして、決定的な違いは、我々の場合は、クラス全員の会話を全部記録し分析するという、気の遠くなるようなことをやっている点です。だから、どう考えても、パターン化するということは出来ないことを知っているのです。「学びの共同体」では、せいぜい抽出児童・生徒の会話を数時間記録分析しているため、この多様性に対する考えが弱いのだと思います。たから、教師が子どもの会話を紡ぐことが出来ると考えているのだと思います。もし、『学び合い』のようにあ一人一人の考え方は多様で、複雑で流動的で、かつ、教師には最後まで理解不能の考えもあるという前提であれば、子ども会話を教師が紡ぐなんて、超能力者でも出来ないことですから。

第二に、教師の立ち位置です。「学びの共同体」では教師は共同体の一員です。子どもたちの中に教師が混じれば、教師の存在は圧倒的になります。だから、共同体のネットワークは教師と子どもとのネットワークが主な車輪型(教師がスポークの位置)になります。そして、スポークの位置にいる教師が紡ぎながら子どもを繋げています。机の配置をコの字にするのも同じ考え方です。おそらく、子ども同士の関係を活性化するためにコの字に配置していると思っているのだと思います。しかし、コの字に配置して、そこに座るならば、ある子が密接に会話できる子どもは固定されてしまいます。でも、それを「変」と思わないのは、子ども同士の関係はそれほど重要と思っていないからだと思います。

ところが、『学び合い』での教師の立ち位置は、集団の外にあります。子どもたちがゴチャゴチャと関わり合っています。教師が関わるのは、集団全体にです。例えば、可視化のようにある子どもの言動を拾う場合であっても、それを特定の子どもに繋げることはしません。その言動を集団全体に伝えます。伝えられた集団の中の個々の子どもが、その子につながるか繋がらないかの判断をします。

私は経営学(教育経営学ではありません)の本をよく読みます。それから言えば、「学びの共同体」における教師の立ち位置は、主任・係長(まあ、せいぜい課長補佐)ぐらいの管理職の立ち位置です。つまり、管理職自体も部下と同じ仕事をしている場合です。しかし、『学び合い』における教師の立ち位置は、本部長・常務・専務・社長などの取締役レベルの管理職の立ち位置です。つまり、部下は営業・経理・開発等の仕事をしていますが、取締役はそのような仕事はしません。集団の目標を定め、評価し、集団を管理するのが仕事です。

「学びの共同体」を実践している方々の中には、『学び合い』を知った後でも二通りに分かれるはずです。

第一は、「うん、なかなか面白いな。でも、今の私の力(本校の実情)では、そこまでは出来ないな。でも、それが実現できたらいいな~」という反応です。その方は、私はかってながら同志だと思います。

第二は、「そんな馬鹿な話はない」と否定される方です。『学び合い』を否定する理由を聞けば分かります。子どもたちより教師が有能であるという前提に立っているはずです。この方の場合は、子ども観が違うのですから『学び合い』とは違います。どちらが正しいと言うことは言えません。平行線は交わらないというユークリッド幾何学も、平行線は交わるという非ユークリッド幾何学もともに正しいのです。ただ、前者で記載されるのは平面であり、後者で記載されるのは曲面だという違いが生じます。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080908/1220835335

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080729/1217320166

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080210/1202639586

追伸 第三の反応もあります。それは、感情的な反発です。これには理屈はありません。それが怖いので、あまりこの種のメモのアップはしたくないのです。が、求められる回数が多いので、アップしました。怖いな・・・・