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2009-06-29

[]加筆 18:19 加筆 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 加筆 - 西川純のメモ 加筆 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 以下の文章を、手引き書及び短縮版の手引き書に加筆しました。

 が、起こりうる全てのことに対応しようとすれば、短縮版も短縮版で無くなってしまいます。結局、「自分の頭で考え続け、分からなければ人に愚痴を言い、知恵をもらう」これに勝る方法はありません。でも、今全ての人が、そのネットワークが確保されているとは限りません。それ故に手引き書を書いています。しかし、本質的な解決策は、ブログや『学び合い』の会や・・のネットワークの充実しかないことは確かです。手引き書は場つなぎに過ぎません。

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 実践する前に、「失敗」のこともいくつか注意します。『学び合い』は極めて簡単で、出来る人は直ぐ出来ます。しかし、失敗する人(正確には失敗したと思いこむ人)がいることも確かです。

一番の原因は『学び合い』は考え方であって、方法ではないということを理解していないことによります。この『学び合い』の手引き書で例示したのは、あくまでも例示です。ところが方法論に捉えてしまうと、何も考えずに、そのままをやります。『学び合い』を理解し、それに確信した人であれば、そのままで出来ます。しかし、これからやろうという人だと、心には迷いがあります、不安があります。そして、子どもにそれがばれてしまいます。自分の頭の中で、自分なりにどうアレンジするかを考えて下さい。

 もちろん、「うん、この子たちならば大丈夫だ!」と思える人ならば、そのままでやった方が良いと思います。しかし、不安ならば、従来型の授業に組み込む方法も有りだと思います。例えば、最初の説明や最後のまとめをしつつ、子どもたちが語り合う時間を10分程度、毎回取り入れるということもありです。徐々に自信がつくに従って、最初の語りや最後のまとめを徐々に削ることによって、その時間を子どもたちが語り合う時間に回すことが出来ます。30分を任すのが不安ならば、15分を2回に分ける方法も有りだと思います。

 ただし、上記の方法の危険性を理解して下さい。それは、いつのまにか従来の授業にちょいとアレンジした程度に陥る危険性があります。上記のような方法でやれば、一定以上の力量のある先生ならば、まず、間違いなく成功します。しかし、それで『学び合い』が成立したと思いこんでしまう危険性があります。『学び合い』の考え方である、授業観や子ども観を本当に願い続けることを放棄し、「やはり子どもには私の指導が必要なんだ」、「子どもは未熟だから守ってあげよう、育ててあげよう」、「勉強はさておき心の成長をさせなければならない」、逆に「心の成長は別な場面でしっかりやるので、授業では教科の内容をしっかり教えなければならない」となってしまいます。そうなっては『学び合い』は永遠に成立しません。それは従来の指導に子どもたちの話し合う場面を加えた程度のもの以上にはなりません。

 自分の説明が必要な状態だったとき、「やはり子どもには私の指導が必要なんだ」とは思わず、「おそらく自分の説明では最後まで分からない子どもは少なくないのに、自分の能力がまだだから、こんなことをしている」と思うならばOKです。

 なお、成績の向上についても注意が必要です。おそらく、子どもの関係性の向上は比較的簡単に達成することが出来ます。少なくとも、休み時間の子どもたちの関係程度は直ぐに実現できます。しかし、その状態では、必ずしもテストの点数に直ぐに結びつくわけではありません。クラスの2割程度の子どもが、「みんなのテストの点数を上げよう」と考え、彼らが頭で考えなければなりません。それが成り立つまでのにはタイムラグが生じます。もし、それにあなたの置かれた環境がそれに耐えられるならば、「みんな」の大事さを語って下さい。もし、それに耐え得ないと判断するならば、先に述べた『学び合い』「的」授業をやって下さい。

 最後に、もし失敗したと思ったら、人に聞いて下さい。私に聞いていただいても結構です。また、『学び合い』グループhttp://manabiai.g.hatena.ne.jp/)に聞いていただいても結構です。これは『学び合い』に限らず、従来の授業であっても教師には絶対に必要なことです。

 私の考える教師に職能は以下の三つです。網羅的、箇条書き的な普通の教師の職能とはかなり違い、静的ではなく、動的に職能をとらえています。

 1)子どもや親のせいにしない。確かに、それが原因なのかもしれないが、それを言ってはおしまい。

 2)尊敬すべき、先輩、後輩を捜し、その人といっぱい雑談をする。見いだす方法は、子ども「たち」に聞けばいい。

 3)まねられるところはまねる。まねられないところは、まねる必要はない。今の自分のままで、出来る授業はある。

 補足します。

 第一の職能がないと、教師の進歩は止まります。教師が求められる能力は多種多様です。例えば偏差値70以上の子どもたちを相手にするのと、暴走族だらけの子どもを相手にするのとでは、求められる対人能力も教材の力も全く違います。小学生を相手にするのと中学生を相手にするのでも違います。また、同じ学校、同じレベルの子どもを教えるのだって、自分が二十代前半であるときと、四十代後半では全く違います。学問的にそれを抽象化することは出来ますが、理論物理学者が車を作れないのと同じ理由で、現実の教室では無力です。結局、教師にとっての最高の教師は「子どもたち」だと思います。子どもたちに教えられながら、常に学び続けなければならないわけです。

 若い先生の場合、過去の自分の経験や、他人の経験を知りません。そのため自分を相対化できません。さらに、年を経ると、失敗しても、その失敗を目立たなくするノウハウは確実に増えます。その結果、職員室の中で、あたかも自分だけが駄目のように感じてしまいます。いえいえ、中堅・ベテランでも追い詰められると、自分だけが駄目みたいに感じます。

 でもね。今まででは通用しないのは、ごくごく当然です。子どもも変わり、自分も変わっているのですから、調整しなければならないのは当たり前です。これは、『学び合い』だって、一斉指導だって同じです。それが嫌になると、子どもや保護者のせいにしたくなる。人情です。でも、このブログを読んでいる方々だったら、そうした先生がどのような先生であるかは「よ~~~~く」ご存じなはずです。もがくしかありません。もがくのが当たり前です。偉そうなこと言っている私も「当然」、一杯失敗し、落ち込みます。でも、もがくから成長もあります。少なくとも、もがかなければ、現状維持はあり得ません。

 でもね。人の能力なんて、たががしれている。もがいても解決できないことが殆どです。そんななかでもがき続けるなんて、神仏でなければ出来るわけありません。当然です。では、子どもや保護者のせいにして合理化する教師になるか、成長しつつけることの出来る教師になれるか、その分かれ目は何かといえば、それが2番目の職能です。これって大事です。自分が分からないこと、困っていることを、解決する方法をこともなげに教えてくれる人っているんですよ。「あ、それね。あははは。知らない人は、なやむよね。それってね・・・・」と教えてくれる人っているもんですよ。答えを知っていなくても、一緒に考えてくれる人はいます。そして、何よりも愚痴を聞いてくれる人はいます。

 教えてもらえる、一緒に考えてくれる、そして愚痴を聞いてもらえる。そこで得られる最大のものは何か?そりゃ、もう一度、自分で考える勇気をもらえることなんです。教えてもらえることでさえ、結局、自分の場面にそのまま使えるものではありません。やっぱり、子どもたちという教師の教師の前で実践して、自分でもがくしかありません。これは『学び合い』も同じです。

 私も落ち込んだとき、いつまでも愚痴を聞いてくれた先輩教師が、十数人の職場でしたが片手以上いました。職員室の横のお茶飲み場では足りない時は、その愚痴を聞いてくれるために酒場や自宅で「奢って」もらえる機会が、週1回以上はありました。今から考えると、驚異的に恵まれていたと思います。でも、今の職場は年齢バランスの崩壊や、様々な要因で私のいた頃とはだいぶ様変わりしていると思います。その場合は、あらゆるチャンネルで繋がることが大事です。(でも、本当は『学び合い』が広がれば、職場が第一の場になると思いますが)

 さて、自分が悩み、人と相談し、再度自分で考えるとき重要なのが第三の職能です。溺れている人は浮いているものに必死にしがみつきます。でも、本当に重要なのは自分で泳ぐことです。あくまでも主体は自分であることを忘れてはいけないと思います。

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