■ [う~ん]誤読

何度も書いていますが、学びの共同体と『学び合い』は根本的に違います。特に、子どもの能力をどれほどと考えるかという点では決定的に違います。でも、子どもたちの相互作用は勉強の手段ではなく、それ自体が目的であると考える点は、重なる部分は多いと思います。
私は佐藤学先生の本は大好きです。教育方法学のような教科書を読めば、佐藤先生が広い範囲のことをしっかりと理解されている方であることは一目瞭然です。また、太郎次郎社の本を読めば、熱き思いを秘めている方であることも分かります。
私の不勉強かもしれませんが、『学び合い』の手引き書みたいなものは無いと理解しています。結果として実践校の実践を参観した人がそれを理解し実践する、ということで広がったと思います。
『学び合い』でも誤読され、従来指導型『学び合い』ではなく、『学び合い』的従来指導型になっている実践はあります。でも、『学び合い』の場合は、それがどう違っているかを明記しています。が、学びの共同体はそれが無いように思います。さらに言えば、学びの共同体の場合、文献研究を基礎としている佐藤先生の本を元にしていますが、子どもの行動を元にした実証データによる学術研究の裏付けが弱いように思います。つまり、佐藤先生の書いている学びの共同体と同じなのか違うのか、それがはっきりとしないと思います。
上記の理由から、私は学びの共同体の実践が、佐藤先生の本に書かれているものと一致するのかしないのかをはっきりと判断できません。が、私の読んでいる範囲内の印象は、違っているように思うのです。
昨日、聞きました。ある『学び合い』実践校が校長の交代により、学びの共同体にシフトしたそうです。その結果、お通夜の席のような声を潜めた会話が、クラスの成績の良い4、5人の中で連続する「しっとり」とした会話に変わったそうです。可愛そうなのは、4、5人以外の子どもであり、悲惨なのは下位の4、5人です。
このような実践と、佐藤先生の本との間に、違和感を私は感じるのです。想像です。従来指導型の名人教師が、佐藤先生の本を自分なりに解釈し、特殊化したのが現在の学びの共同体のように感じます。まあ、名人教師がやるぶんには、いいのですが、それをごく一般の教師がやると悲惨になります。数十人の子どもの会話を紡ぐと言うことは、実に多種多様な子どもの反応パターンを理解し、瞬時に見取る力量が必要です。これはスーパーマンのみが出来ることです。それが出来ないから、凡庸な教師でも理解できる、教科書的に正しい反応をする子どもの会話「のみ」で授業が進行することになります。
攻撃的であるのは反省しつつも、4、5人の成績の良い子どもだけで成立している授業で、下位の子どもがどれほど悲惨な状態なのかを想像すると、本メモを書きたくなりました。すみません。