■ [う~ん]救い
以下で書くことは、ブログで書くべきではないと分かっているのですが、ムカムカ感が強すぎるので書きます。
私は特定の宗教を信じていません。強いていれば汎神論です。その根本3つのことを信じています。一つは神・仏はいるだろう。二つはそれは全知全能だろう。第三はそれは生きとし生けるものを愛しているだろう。というものです。大抵の宗教は概ね、その方向性は正しいものです。が、個々の細かいところになると、矛盾が生じます。特に、二つ目と三つ目が矛盾します。例えば、全知全能の神仏がいるとして、何故ホロコーストがあったのか、何故、広島・長崎の原爆があったのか。私の身近だったら、私が高校で教えた子どもたちは、何でそういう人生を子どもの頃から歩まなければならなかったのか。(神学的な解釈は色々あると思いますが、それは以下で書く、無学な在家には無縁なことですから)
私なりの解釈は、現世は色々あるけど、来世はそんなことがどうでも良いほど幸せになるのだろう、という至極、楽天的な解釈で落ち着いています。
ということで、特定の名号や念仏を唱えるだけで来世の幸せが保障されるという宗教に親近感を感じます。私の家の葬式仏教は浄土真宗です。ということで、親鸞さんは高校から読んでいましたし、好きでした(が、基本的に私は無宗教です。)。その浄土真宗のことをわかりやすく解説する人で、前から読んでいた人の新刊書が家に届きました。読みました。げんなりします。書いていることは原典に即しており、正しいと思うのです。が、同時に、それじゃ無学の在家は絶対に救われないだろうと思うのです。今の時代だったら、それを要求しても応えられる人は少なくありません。しかし、人類の圧倒的大部分の時代、つまり、生きるだけで精一杯の人は絶対に到達できないことを要求しています。それが弥陀の本願とは思えないし、それが弥陀の本願だとしたら、無学な在家の人にとってはちんぷんかんぷんです。
ここまで書いても問題なのに、以下を書き加えると、きっと「そんなこと書くと誤解を生むから書くべきではない」と言われるだろうな、と思いながらも書きます。
『学び合い』は非常にシンプルな原理原則で構築している科学と近い理論だと思っています。でも、その理論の根本は「一人も見捨てない」ということです。もし、『学び合い』の手引き書に書いてあること、導入書に書いてあることを理解していなければ、『学び合い』は実践できないとしているならば「一人も見捨てない」ということに矛盾します。だから、全員、分からなくても良いのです。集団の2割程度がある程度分かっているならば、8割は生分かりでも大丈夫です。それは、『学び合い』のクラスでで起こっていることですよね。クラスの大多数が本当に理解していることを必須としていたら、普通のクラスでは永遠に『学び合い』は実現するわけありません。ごく一部でも本当に理解して、まわりが「いいんだろうな~」と思うレベルでOKで十分だと思います。現状が人数が少なすぎるので、やっている人は2割にならなければなりません。でも、広がれば、大多数は生分かりでOKだと思っています。
日本は日本国憲法によって動いています。が、日本国憲法を「平和主義」、「主権在民」、「基本的人権の尊重」に直接関わる条文「以外」を知っている人が日本人にどれだけいるでしょう。いや「平和主義」、「主権在民」、「基本的人権の尊重」に限っても、そのデリケートな表現の意味することを分かっている人がどれほどいるでしょう。殆どいません。でも、分かっている人も少数います。それで良いのだと思います。
一人も見捨てない、と言うことに矛盾する記述にムカムカしてこれを書きます。その方が親鸞さんの原典に即して学術的に正しいことを書いたとしても、私には納得できません。弥陀の本願とは、無学な、生きるに精一杯で、親鸞さんの原典を読む時間もない人ももれなく救うものだと、私は信じています。