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2011-10-25

[]得 14:17 得 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 得 - 西川純のメモ 得 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 何故、日本を変える、ということが得なのかを質問されたので回答します。ま、以下に長々書きましたが、子ども達に「一人も見捨てず」ということを求めることが得であると説明するのと同じです。

「日本を変える」は無理じゃない

 私はゼミ生に、我々は日本を変える集団だ、と語り、求めます。ま、「何言ってんの?無理じゃん」と思うのが普通です。が、私は信じています。これに関しては説明が必要ですね。

 権力者は日本を変えられるが、一般市民は変えられないと思いますよね?でも、思い出してください。ここ十代の日本国首相を思い出してください。名前を思い出せますか?そして、その人がやった「日本を変えたこと」を思い浮かべられますか?おそらく、十人を思い出せなかっただろうし、思いさせたとしても、その人がやった「日本を変えたこと」を思い出せない人ばかりではないでしょうか?

 日本は1億人以上の巨大組織です。そのトップが何らかの命令をしたとしても、それを実際に行うのは人です。例えば、十のことをやったとしても、それが閣議で大臣に伝わり、それが事務局長、局長、課長、課長補佐、係長という本省のラインで伝言ゲームをすることになります。そして、各段階では上の命令を解釈する部分があるのです。もし、解釈で0.9倍にしたとしたら、10段階の伝言ゲームをすれば、3分の1になってしまいます。その伝言ゲームは、地方の行政組織に伝わるのです。結局、日本国首相であったとしても、それを実現する末端までの数多くの人の協力がなければ何も出来ません。

 職階が上がれば、権力を持てば大きなことを出来ると思う人は、永遠に何も出来ません。何かを成す人は、どんな職階であったとしても、様々な人と繋がりながら、自らの夢を語ります。そして様々な人と繋がりながら、自らの願いを洗練させます。そんな人が願いを叶えます。

 無理と思う人は、「自分が無理」と思っているから無理なんです。でも、私は出来ると思います。なぜならば、私は「我々は出来る」と思っているからです。

 日本を変えろ、とゼミ生に語っている私は毎日何をしているでしょうか?非常に、規則正しい生活をしています。

 6時に起床です。直ちに着替えて家のカーテンを開けます。6時10分ごろ、まだ眠りたい、と言っている息子の布団をはがし、コチョコチョとくすぐります。家内が朝食と私の弁当づくりを始める頃に、息子の朝学習をチェックします。その合間に、メールチェックをします。7時10分ごろに息子と朝食開始、7時30分ごろ朝食終了。息子の仕上げ磨きをして、制服に着替えさせます。7時45分に家の前に集まる近くの子どもを学校に送り出します。直ちに車に乗って大学へ。8時に大学到着。直ちに、メールチェックをします。この時間帯までに、全国からの質問メールに応えます。11時30分に学食に行きます(50分には授業がおわり、混みますので)。11時50分に食べ終わり、メールボックスに手紙を取りに行きます。12時から2時半ぐらいまで学内の書類づくりやブログをアップします。2時半ぐらいに学生さんのいる場所でお茶を飲みながら馬鹿話をします。3時半ぐらいに研究室に戻り、メールに返答をします。6時ぐらいに院生さんの場所に行き、本日、問題がなかったかを確認します。6時45分に帰宅です。7時に自宅に着きます。直ちに息子に体温をチェックさせ7時10分ごろに風呂に入ります。風呂から上がって、息子の髪の毛を乾かします。息子がテレビを見ている脇で、メールに返信します。7時45分ぐらいに夕食開始、8時半ごろに終わります。その後、息子の仕上げ磨き、パジャマを着させ、8時50分には布団に入れ、添い寝です。9時40分頃に添い寝から出て、メールチェックをします。その頃、家内は風呂に入ります。10時半頃、髪を乾かした家内とテーブルでゴチャゴチャと話します。10時45分頃、メールチェックをして、11時就寝。

 私の1日は基本的に上記の繰り返しです。そして、私の過ごしている時間の最も多くの時間を費やしているのは、全国の見知らぬ人からのメールに返信すること、そして、ブログに記事をアップすることです。ごく普通のことを毎日、毎日、やっています。今まで私に質問メールをした方だったら知っているはずです。一度たりとも、不誠実に返信したことはありません。ときにはA4版で5ページ以上のメールも書いています。そして、きわめて早く返信しています。それをずっと十年以上続けています。

 どこに劇的なものがあるでしょうか?なんもありません。でも、この毎日の積み上げが日本を変えることであることに確信を持っています。現在、関西で『学び合い』が広がったのは、見ず知らずの3人の学生さんが土曜日に突然合いたいと言ってきたので2時間ほど話をしたことが原因です。現在、神奈川で『学び合い』が広がったのは、一人の大学生の方が、『学び合い』をみたいと言ってきたので相手をしたからです。宮城で『学び合い』が広がったのは、『学び合い』の会場で私に議論をふっかけた相手に、最後まで説明し続けたからです。福岡で広がったのも、高知で広まったのも、メールでの質問に最後まで返信しつつけたからです。・・・・・・。全部、全部、聞かれたら、頼まれたら、自分の出来ることをした、というだけのことです。

 そういう人たちが全国にいます。直に合うのは年に1度ぐらいかもしれません。いや、1度もない人もいます。でも、その方々の息づかいを私は感じています。それぞれの人がネットワークなり、その人たちが出来ることをやっています。一人一人のやっていることは劇的なものではなくとも、それらの積算したものは大きなものになります。さらに、1+1が2ではなく、4にも6にもなることを知っています。

 ゼミ生には、日本を変えることは凄いことをすることではない。自分の出来ることがあるはずだ。それをやればいい、と言います。例えば、ブログやミクシーでも良い。アマゾンの書評に書き込みをすることでも良い。知り合いに話すことで良い。どんなことが、その後に大きな変化を引き起こすか分かりません。そして、それが大きな変化を引き起こすことがなくても、もし、一人の教師の心に届けば、数百、数千の子どもに意味あることを成していることであり、尊いことであるとかたります。

 私はゼミ生に意図的に広い範囲の同志と繋がる機会を与えています。そして、彼らの成果がより広い範囲に影響を与える場を提供するよう政治をします。彼らは、今、数人の学生が学校を変え、地域を変えることが出来る可能性を感じ始めています。私が求めた日本を変えると言うことは、あながち荒唐無稽ではないと確信する学生が増えつつあります。

 つまり、日本を変える、というのは荒唐無稽ではないのです。「自分」と思えば、それはそうです。そして事実です。日本国首相だって無理です。でも、「我々」と思えば、それは不可能ではないのです。ポイントは自分ではなく「我々」なんです。

 では、出来るとして、何故、それを私はゼミ生に求めるか、そして自らにそれを課すか?それは、「得」だからです。一人の子どもに拘っている限りは出口はありません。むしろ一人も見捨てない集団を作ることの方が可能性はある。

 考えてみてください。日本を変えるということを大学生や現職者に言ったら、荒唐無稽と思いますよね。でも、クラスの子どもに一人も見捨てずに、と求めることは子どもにとっては同じように荒唐無稽です。だって、クラスと言ったって、話したことの殆ど無い子どもは少なくない。ハッキリ言って嫌いな子どももいます。ましてや異学年学習で百人を超える集団で『学び合い』、一人も見捨てるなと言ったって荒唐無稽だと思います。

 単学年の『学び合い』をしていると、「○○ちゃんは言っても聞いてくれない!」と涙ながらに教師に訴える子がいます。そして、保護者に先生が手抜きしていると訴える子がいます。十中八九、特定の一人、もしくは数人が「お世話係」になってしまった場合です。また、異学年学習で「教えるばかりで自分たちの勉強にならない」と訴える高学年がいます。これまた、高学年の数人が「お世話係」になってしまった場合です。残念ながら、それらの原因は、個にこだわっている教師の心なんです。とにかく、気になる子を世話する子がいて、なんとか問題が解決しているならば、それはありがたいという気持ちです。これを解決するためには、みんなが実は得であるということを語らなければなりません。

 そして、子どもたちは、その語りを聞いて、その教師の「腹」を探ります。考えてみてください。異学年の『学び合い』をしている教師が、「自分のクラス」のことばかり考えていたら、どうでしょうか?単学年の『学び合い』をしているとき、「気になるあの子」のことばあかり考えていたらどうでしょうか?ばれてしまいます。では、異学年の『学び合い』の時、その異学年のことを考えていたらOKでしょうか?私はそう思いません。おそらく、仲間や同僚だったらOKでしょう。でも、管理職とは認めてくれません。自分たちより上の次元で考えられ、それを自分たちの次元に矛盾無く繋げられるからこそ管理職と認められ、その管理下で動くのです。これを校長に置き換えれば理の当然ですよね。

 私は教師としては西川ゼミが高い成果を上げ続けることが求められています。そして、今、西川ゼミは二十代そこそこの学生も、学校をどうあるべきかを考えねばならない課題を持っています。いや、学校同士をどのように結びつけるか、学校と地域をどのように結びつけるかを課題としています。なれば、彼らに「日本を変える」という課題を与えるのは必然です。そして、彼らにそれを私が求めるためには、私自身の言動がそれに矛盾無いものでなければならない。そして、彼ら以上の視点で課題を考えられねば管理職として認めてもらえない。

 長々と書きましたが、以上に書いたことが、『学び合い』の学校観と子ども観に一致していることはお分かりだと思います。その「多様な」という言葉、「有能である」という言葉の意味が高いレベルなのです。もし、子どもにそれを求めるならば、教師もそれに矛盾しない言動をすべきです。でも、無理ではないのです。自分でやるのではなく、みんなでやればいいのですから。そして、それが得なのです。多様・有能であるという言葉の意味を限定的に考え、それで問題が解決される方ならばどうぞ。でも、スーパーマンでない凡夫である私はそれが出来ないから『学び合い』をやっています。

「日本を変える」は得

 私の指導教員は小林学先生です。本当に優しくて素晴らしい先生でした。東京都の高校の教師でしたが、若くして指導主事に抜擢され、そして、文部省の教科調査官になり、筑波大学の教授になられた方です。私が東京都から合格通知を受けた後、その小林先生にどうやったら出世できるかを聞いたことがあります。その時、小林先生が笑いながら話してくれたことです。

 小林先生は私に、「採用されれば、いろいろな研修団体の会に参加すると思うよ。その会に出席して受け付けをしたとき、何をする?」と聞かれました。ま、名簿に名前を書いて、会場に移動します。しかし、それでは駄目だそうです。小林先生曰く、受付の人に「何か手伝うことはないですか?」と聞くことだそうです。おそらく、最初は断られるでしょう。でも、二三度申し出ると、仕事が用意して待ってくれる。そして、終われば、打ち上げに参加します。そうすると、今まで出会えない人と会うことが出来る。情報が広がり、より高度な仕事が与えられる・・・・。

 この話を最初に聞いたのは学生の頃です。そのころは「ふ~ん。そんなもんか。つまり、頭を下げて仕事をすれば報われる」というような話として理解していました。ところが、大学に勤めるようになって、本当の意味が分かるようになりました。 小林先生の話は「出世」というものより一般性の高い意味が含まれています。人は等質な人とつきあうのは楽なのですが、得をするのは異質な人とつきあうことなのです。考えて下さい。人類の歴史の中での交易は異質な者同士の間でなされました。海岸近くの人は山の人と物を交換しました。それは海岸近くの人にとってはありふれた物が山では価値ある物であり、山ではありふれた物が海岸近くでは高価な物になるからです。だから、両者がともに「得」だと思うから交易が続いたのです。

 これは物ばかりではありません。情報もそうです。アメリカの社会学者が、結婚相手を誰に紹介されたか調査しました。その結果、親友や肉親ではなく、それほど親しくない知人からの人が多かったのです。何故でしょう?それは親友や肉親が知っている人は、当人も知っている人なのです。その人の中で相手がいないのですから。(実は私の場合もそうです。)

 さて、上記のことが分かり始めたのは、大学に就職してからです。大学の教員だと、二十代後半の私も現場のお偉いさんと一緒に飲む機会は少なくありません。そして、大学教員だと気楽に色々な話をしてもらえます。そこでの愚痴の多くは、使える若手がいないと言うことです。たいていの教師の視野は自分のクラスに限定され、主任レベルでも学校レベルに限定されます。そして、市や県レベルのことを考えている人は殆どいません。ところが、県指定・文科省指定の研究会があり、そこで汗を流してくれる若手・中堅がいないのです。教頭試験がちらつく年代には、そういう仕事を頼め、受ける人はある程度いません。しかし、それより若い年代では殆どいません。でも、どんな会でも若手・中堅・ベテランには別々な役割があり、それぞれを担う人が必要なのです。結果として、教頭試験がちらつく年代で市や県レベルの仕事をしても目立ちませんが、若手・中堅時代にそれをやる人は光るのです。だから、若手・中堅のお偉いさんの中での評価はある程度一致します。

 小林先生の話を最初に聞いたときは、若手の教員の側からの視点でしか見えませんでした。しかし、実は使える若手をお偉いさん達はひどく求めているということが分かりました。

 このことは私も当てはまります。私は四十代の前半に新しいコースの立ち上げの中心メンバーにいました。そして四十代前半に新しい専攻(教職大学院)の中心メンバーにいました。普通だったら数十人のチームで立ち上げますが、上記のコースの立ち上げの場合、その基本コンセプトをほぼ一人に任せてもらえました。そして専攻の立ち上げの場合、その基本コンセプトはもちろん、スタッフの構成に至るまでありとあらゆつことを任せてもらいました。当時の大学管理職はもちろん、立ち上げの中心メンバーの方々が私を信頼していただいたからです。

理由は、私が自分の研究室やコースというレベルではなく、常に大学や日本の教員養成をどうしたらいいか、というレベルで考え続けたからです。それも半年、一年のレベルではなく、十数年というレベルでです。結果として、関係法規の施行令・施行規則レベルのことを学びました。様々なことを事務職員の方から教えてもらいました。だから大学管理職にも議論をふっかけますし、ご下命をいただけば直ぐに案を提出できます。だって、既に用意しているのですから。結果として、自分の考える研究環境や教育環境を確保することが出来ます。

 事務職員の方々は、大学の置かれている環境が厳しいことを理解しています。しかし、それに対応すべき教員が少ないことを困っています。だから、私が議論をふっかけるような職員の方にとっては私は有り難い存在だと思います。つまり、互いにメリットがあるのです。これは大学管理職にとっても同様です。地元の偉いさんが使える若手・中堅を必要としているように私を必要としています。そして、私にとっては、自分の願う研究・環境を確保する権限のある管理職が私を認めてくれるのは有り難い。

 おそらく横並びのことを毎年やって、来年も同じようなことをする人にとっては志を高くする必要性はあまりないでしょう。そして、目の前の子どもが阻害されていたとしても、それは「その子が悪い」、「保護者が悪い」、「日本の教育システムが悪い」と合理化する人も志を高くする必要性はあまりないでしょう。

 が、その人は幸せなのでしょうか?起きている時間の殆どの時間を占めている勤務時間に誇りや楽しみが無くて幸せとは私には思えません。子どもを見捨てて合理化している人も安穏とはしてはいられません。今の時代の保護者は民主主義で育てられています。権利意識も高い、かつ、論も弁も立つ方がいます。

 学校の職場の教育力は著しく下がっています。無計画な採用計画の結果、年齢バランスが崩れたためだと私は確信しています。結果として、先輩のサポートを受けられない若手が大量に生まれました。逆に言えば、若手のサポートを受けられず、若手と同じ意識で授業をして潰れていく中堅が生まれました。考えて下さい。若手でも中堅でもベテランでも、どうしようもなく忙しい時や、家庭・健康の問題で頭がいっぱいになるときはあります。その時、ちょっと助けてもらえれば、それを乗り越えることが出来ます。しかし、普段の助け・助けられる関係が無くてそれが出来るでしょうか?自分のことでいっぱいいっぱいの同僚が助けてもらえるでしょうか?逆に、自分のことでいっぱいいっぱいのあなたが同僚を助けるでしょうか?無理です。そして、一般職員と管理職が対立的にすることによって管理しようとしている現状では、それらの職場の関係を改善するする力は管理職にはありません。

 今、教師の200人の一人は心の病で休職中です。ということは職場において一人や二人はその予備群という現状です。さて、このような状態が「幸せ」でしょうか?

 これを打開しようとしてスーパーマン教師や滅私奉公の教師になろうと努力している人がいます。が、スーパーマン教師になれるのはごくごく一部です。日本中の100万人の教師の中で千人もいません。滅私奉公でやれば家庭は崩れます。不良を救って、我が子を不良にしては幸せになれるわけありません。

 ではどうしたらいいか?自分の学年・教科・学校・市・県を越えた人と繋がることが「得」なのです。それも、あなたと異質な人と繋がることが「得」なのです。では、どうすればいいでしょうか?自分の学年・教科・学校・市・県を越えた志を持ち、それを実現する行動をすればいいのです。それ故、私は「日本を変える」という志を掲げているのです。もちろん最後に獄死するような革命家になる必要はありません。先に述べたように、毎日、普通にやれることをすればいいのです。

でも政治をしてください

 市や県が違う人と繋がれることは重要ですが、同時に、同じ職場の人と繋がれることも大事です。 私は筑波大学第二学群生物学類に入学しました。同級生は80人です。その中に非常に変わった人がいます。A君としましょう。A君は、私の学生宿舎の部屋の隣の隣です。ところが、彼を宿舎で見かけることは殆どありません。A君は授業で見かけることは希ですし、いても目立ちません。なにしろ「A君としゃべった」ということが同級生の中でホットな話題となりました。我々はA君は人と話すことが好きじゃない人なんだな~っと思っていました。ところが、「A君が、知らない数人と話していた。それも笑いながら!」という驚愕のニュースが同級生の中で流れました。みんなは信じられませんでした。

 しばらくして、A君はある宗教団体に属していること、そして、その宗教団体の人とは話すこと、ということを知りました。そして、それによって、その宗教団体のことをカルト的に捉え、非常に嫌な印象を持ちました。その宗教団体にかぶれるとA君みたいになるんだな、と思うようになったんです。そして、A君は途中で退学しました。同級生との関係を絶って卒業できるほど大学は甘くはありません。A君も同級生との関係を絶って卒業できるほどの能力はありませんでした。

 他山の石です。『学び合い』を知れば、多くの教師が「良し」としているものを全く別な視点で見ることになります。多くの教師が見逃している「アラ」がよく見えてしまうのです。私は『学び合い』が従来型に比べて圧倒的に優れていると思います。従来型と「いいとこ取り」のようなことが出来るような差ではなく、圧倒的に優れていると思います。が、それは従来型と『学び合い』の比較です。従来型の授業をしている人と『学び合い』の授業をしている人の比較ではありません。圧倒的大多数の教師は善意の人です。そして、我々はみんな愚かである部分を持っています。みんな同じです。変な選民意識を持ってしまえば、A君のような行動になります。そして、A君のような行動をすれば、『学び合い』がカルトのように思われてしまいます。それは本人にも『学び合い』にも不幸です。