■ [親ばか]ノート指導
「東大生」と「ノート」というキーワードで検索すると色々な書籍が出ています。読めば、さすが東大生と思います。ノートでしっかりまとめることが、ある一定以上に伸ばすためには必須なことだと考え、先生方はノート指導をされます。
しかし、そうでしょうか?万人に合ったノートの書き方というのがあるでしょうか?結論から言えば、そんなものはありません。人は一人一人違います。例えばです、ノーベル物理学賞の受賞者同士が黒板で書いたものは、おそらく凡人にはちんぷんかんぷんでしょう。いや、並の物理学者でも意味不明なのではないでしょうか?東大生のノートは、東大を狙うような子どもには有効でしょうが、一般の子どもには有効とは思えません。
教師がノート指導をする際、何を根拠によいノートのあり方を決めるのでしょうか?結論から言えば、そんなものを決められる学術的な研究はありません。逆に、人間の認知の多様性を明らかにする研究成果は山ほどあります。そこから言えば、そんなものはないと学術的に言えます。では、何を持って良いノートのあり方を決めているのでしょうか?十中八九は自分の経験を元にしているはずです。しかし、それは教師になるような人にとって良いノートになるかも知れませんが、指導で悩んでいる子どもにとって良いノートにはなりません。
では、一人一人の「その子」にとって良いノートのあり方は決める際、善し悪しを決められるのは誰でしょうか?それは「その子」なのです。それが『学び合い』の考え方です。以前、『学び合い』におけるノートの変容を調べたことがあります(野口雄一、西川純(2009.5):『学び合い』をリードする学習者に関する研究、臨床教科教育学会誌、臨床教科教育学会、9(1)、35-60)。それによれば、「みんなが課題達成する」ということを求め続ければ、子ども達は互いのノートを比較しながら、自分なりのノートを作り上げているのです。
本日、息子の社会のノートを見ました。正直、腰を抜かしました。今まで色々な子どものノートを見ましたが、こんなノートは初めてです(http://goo.gl/ptCju)。本当に素晴らしノートです。が、おそらく硬直的なノート指導をしている教師には理解不能だと思いました。(幸い、息子の担任の先生から「たいへんよくできました」」の判子を頂きました)
ちなみに、私は小中高大大学院という一生涯の学校教育の中で、一度もノートを書いたことがありません。正月になると親がノートを買って、しっかり書くように言うのですが、続きません。理由は私が悪筆で、自分の書いたノートが読めないからです。そのため、三日坊主どころではなく、その日のうちに断念します。そのため、小学校高学年ごろにはノートは書こうとはしません。その代わり、授業中は教師の話を聞いて、教科書にちょこちょこっとメモをする程度です。算数・数学は教科書の欄外に計算をしました。そんな私ですが、算数・数学の中学校、高校での成績は良かったです。理科、社会に関しては小学校高学年以来、5(もしくは10)以外の成績をとったことはありません。そんな子どももいます。