■ [大事なこと]足して2で割る
私は超シンプルな『学び合い』を提案しています。しかし、それ以外を認めないと申しているのではないのです。そのあたりを誤解されて「西川先生は駄目だというだろうけど」、「西川先生は怒るだろうけど」と言われるのを心苦しく思います。ま、私が面前としている時に言ったり、私が読むことを予想している場所に書いてあるのですから、悪気はなく、冗談半分であることは十分に予想できるのです。しかし、私と直にあって、馬鹿なおっさんであることを知らず、教条的な大学教師と思っている人には、額面通りに受け取られかねません。で、定期的にアップします。
私は大学の教師であって、小学校の教師でもなく、中学校の教師でもなく、高校の教師でもありません。だから、小中高の子どもを教えることに関しては、小中高の先生がプロだと敬意を払います。しかし、『学び合い』を教師に伝えたことに関しては、ダントツで私がプロだと思っています。伝えた教師、学校の数が違います。伝えた教師の多様性もダントツです。中には、『学び合い』をやりたくないという人に伝えることもあるのです。
その経験から言えば、シンプルでない『学び合い』、具体的には従来の手法を取り入れたた足して2で割る『学び合い』は、初心者には難しいのです。足して2で割る『学び合い』は一斉指導での力量が極端に高い教師のみが出来ることです。ところが、人は自分の経験に照らして、一般化します。たった一人(もしくは数人)の「自分」の経験に基づいて、一般化してしまうのです。私は直に伝えた教師だけでも数百人います。
なぜ足して2で割る『学び合い』は難しいのでしょうか?それは、教師の介入する割合が多くなれば、その教師の力量に成否がかかってしまうからです。たとえば、中間のまとめ、後出しじゃんけんの指示は一斉指導ではよくあることです。というよりも一斉指導の多くの教師は、自らが何を目的に授業しているかを明確に考えずに、とりあえず授業をして、後出しじゃんけんで修正することはよくあることです。
中間のまとめ、後出しじゃんけんの指示、さて、それが有効な子どもは何人いるでしょうか?クラスの中には東京大学に進学するかもしれない子もいる一方、知的な障害が疑われる子どもがいるのです。その子どもの顔を一人一人思い出してください。さて、何人がその中間のまとめや後出しじゃんけんの指示が有効でしょうか?
一般の教師だったら3割程度、名人教師であっても6割程度だと思います。でも、従来の一斉指導の場合は、子どもたちは座っていて、黙っているので、その問題点が表出しません。ところが、『学び合い』はよい面も悪い面も、非常にわかりやすい状態です。3割程度しか有効でない中間まとめや後出しじゃんけんの指示をすれば、『学び合い』の質は下がるのは当然です。
事実、私のところに来る『学び合い』の悩みのうち、同僚・上司とのおりあいの付け方以外の悩みの九割以上は、足して2で割る『学び合い』によって生じたものです。
ただ、シンプルな『学び合い』の欠点は、多くの教師が信じ切れない、ということです。信じ切れなければ、それが子どもに伝わります。それを乗り越えるために、『学び合い』ステップアップでは、イベントの『学び合い』から入ることを提案しています。イベントだったら、週1時間だけならば、割り切ってシンプルな『学び合い』に取り組める人はかなりいるでしょう。そして、より確実に『学び合い』を学ぶ道として、『学び合い』ジャンプアップで紹介した合同『学び合い』、異学年『学び合い』を提案しています。これは思いつきでやっているわけはありません。千人を超える教師、数十の学校に『学び合い』を伝えた経験と、それに関わる学術データで保証しているのです。
追伸 『学び合い』の考え方が分かった後は、「一人も見捨てない」という軸をぶらさない限り、自由に変形しても大丈夫だと思います。私がやっているのは、入り口だけを用意しているだけなのですから。
■ [う~ん]地方
都市部は教育委員会の縛りが強いために隠れキリシタンのように『学び合い』を実践している方が少なくない。しかし、それを勘案すれば、『学び合い』の広がり方は都市部に近づくほど厚みがついています。一方、地方になればなるほど弱くなる傾向があります。
何故かと言えば、問題意識の差だと思うのです。
都市部、また、都市部に近いベットタウン化した地域の保護者は学校にちゃんと要求します。具体的には、成績を上げてほしいし、子どもは喜んで学校に行ってほしいと願います。当然の願いだと思います。しかし、今の一斉指導は2割程度の子どもは完全に切り捨てることによって成り立っている教育です。これは教師の能力とか熱意とか言う問題ではなく、子どもの多様性を認めれば小学生にも分かる理屈で、2割程度の子どもは切り捨てざるを得ないのです。でも、その2割の子どもの保護者が問題解決を求めてくるのです。
一斉指導では出口はありません。だから、『学び合い』が広がっているのです。
一方、地方では状況が違います。何が何でも成績を上げてほしいとは願っていません。なかには成績を上げるとクレームが来る地方さえあります。なぜならば、成績が上がり大学に進学したら地元に戻らないことを恐れているのです。
地方に行けば、都市部の学校からは考えられない二十人学級、十人学級、はては二三人学級が実現しています。そのクラスサイズで経験十年以上の教師が教えているのですから、よほど相性が悪くなければ、都市部よりも教科指導はやりやすいです。そして、教師自身も「やった」という充実感を感じることが出来ます。
しかし、NRTが高いことで有名な小規模校の子が、進学先では鳴かず飛ばずになることは一般的ではないでしょうか?NRTの結果は子どもの能力ではなく、その学校のクラスサイズと教師の能力に過ぎないのです。そして、大きな学校に進学し、不適応を起こしてドロップアウトしてします。しかし、問題が起こるのは進学してからであり、その問題の責任は進学先が担っているのです。保育園、小学校、中学校の12年間、ずっと同じメンツで学習している地域も少なくありません。そうなると高校で表出する問題の責任がどの学校、どの教師にあるのかも訳が分からなくなってしまう。そして、問題が起こっても保護者は怒鳴り込まなくなるのです。
そんな地域では何をやるでしょうか?とにかく目立ったことをやります。なにしろ結果に関しては誰からも評価されないのですから、「やった」ことが大事になります。「やった」とわかりやすい、その時のキーワードを前面に出した研究をドカンと打ち上げるのです。都市部学校は保護者からの要求に疲れ切っているのですから、そんな打ち上げ花火をやる余裕なんてありません。だから、なおさら目立つのです。
大人になってからのことを考えれば、地方の子どもたちの方が危機的なのに・・・と思い、焦っています。
■ [大事なこと]思いつきでやらないで
教育実践の世界では「思いつき」で満ちあふれています。
たとえば少人数指導です。事の発端はフロンティア事業ですが、そもそもフロンティア事業の全文を読んだ人がどれほどいるでしょうか?ちゃんと読めば「少人数指導をしろ」とは書いてないのです。可能性のある指導法の一事例として書かれているに過ぎません。ところが、どの段階かで少人数指導だけが一人歩きしてしまいました。
そもそも少人数指導が何故有効なのでしょうか?「え、だって有効だろ」と思うかもしれません。でも、それは素人考えです。私の知る限り、少人数指導が有効だという学術データを知りません。少なくとも、それにかかる労力と予算に見合っていると示した学術データを知りません。
学校に行けば、論理的説明するにはこれこれの話形(たとえば、「私は○○だと思います。理由は・・・・」)で話しなさいと書かれた模造紙が貼られています。しかし、その話形が論理的であり、かつ、その話形で語れば論理的になると示した学術データそ知りません。逆に、科学史研究の成果を学べば、科学者はそんな話形で話し合っていないことは学術的に明らかです。
教育委員会が授業の型を示している場合もあります。しかし、その型が有効であるという学術データがあるのでしょうか?おそらく、18世紀のヘルバルトに影響を受けた明治時代の五段階教授法の変形なのでしょう。実証データで基礎づけられなかった時代の授業の型を、現代でも踏襲していることを奇異に思います。
私が若い頃の話です。理科の学会に教科調査官が来て、新しい学習指導要領の説明をしました。その際、ある先生が学習指導要領のここが悪い、あそこが悪い、だから、私はこう教えていると言い始めたのです。はっきり言って喧嘩をふっかけているんです。若い私はドキドキしながら聞きました。その教科調査官は、やんわりとあなたがそう教えていることが正しいという根拠を問いました。問いを重ねている結果として、それをやっているのは、同僚や校長や保護者や子どもと無関係に、その人が、そう思ってやっていると言うことを浮き彫りにしました。そして、学習指導要領を無視して、その人が思うとおりに他人の子どもに教えてよいのは何故かと教科調査官は問いました。その人は「自分は教師だから」と言ったのです。
そこで、教科調査官は、その人が教師であるという身分を持っているのは、公務員法や教育公務員特例法などの法に基礎があり、それがなければ単なる物知りおじさんに過ぎないことを指摘しました。そして、教師が一定の法に基づくプロセスによって決まった学習指導要領を否定すれば、教師であることを自己否定することを明らかにしました。明らかに、その人の負けです。私は学習指導要領が神の啓示のごとく正しいとは思っていません。しかし、学習指導要領は民主的な手続きによって定められたものであり、個々人の思いつきで、それを無視していい訳ありません。どうように、個々の組織の思いつきで無視していい訳はありません。
我々は他人の子どもを教えているのです。保護者から「何故?」と問われたならば、法によって答えなければなりません。法に書かれていないことを他人の子どもに強いたならば、それを説明できるだけの根拠を持たねばなりません。つまり「だって、当たり前でしょ」とか、「みんなやっていることでしょ」では駄目なのです。
はたして、いろいろな学校で指導されている話形、授業の型に実証的データに基づいた根拠はあるでしょうか?
ちなみに、「一校時中、静かに座って、ノートをつけなさい」ということは学習指導要領はもちろん、教育基本法、学校教育法、その他の関係法規に、どこにも書かれていません。
『学び合い』は「だって、当たり前でしょ」とか、「みんなやっていることでしょ」ではなく、ちゃんと学術と実践のデータによって吟味されて成長しています。