■ [大事なこと]私の失敗
若い人、それも本当に教師になろうとする若い人を見ると頼もしく思います。しかし、同時に私と同じ失敗をするだろうな・・・と思います。
今の教師の理想像は、子どもの親であり、子どもの兄・姉として接する姿です。しかし、それは無理ですし、それによって子どもを見捨ててしまいます。何故なら、親や兄・姉として接することが出来る子どもの数は数人です。つまり、大多数の子どもはそのように接することは出来ないのです。
私が教師だったとき、独身であることもあって全ての時間を教育に向けることが出来ます。自分を青春ドラマの教師に投影していました。そして、そう思えました。が、結果として多くの子どもを奈落の底に突き落としたことを知っています。おそらく、そう思った人はいないでしょう。おそらく突き落とした子どもさえも、良き教師像に侵されているからです。そして、『学び合い』を知るまでの私もです。
しかし、今の私はそれを知っています。『学び合い』を知れば、それまで自分がしていたことが恐ろしくなります。どれほどの子どもに被害を与えてたかと・・。そして、私の教え子の場合は、皮一枚で学校とつながっているような子どもです。そして、学校とのつながりを切れば、あとは奈落の底です。私は善意から、その一枚を切っていたのだと思い、恐ろしくなります。
一般の「良い先生」を目指すとどのようなことが起こるか、そして、そのまま10年、20年たつとどうなるかを詳しく講演で語ることがあります。でも、語れば語るほど、自分の教え子のことが走馬燈のように思い出され、空恐ろしく、また、悲しくなり、聴衆の前で不覚にも辛くて号泣してしまうことがあります。
私の教え子に対して贖罪のしようがありません。せめて、東京都八王子市近郊の学校に『学び合い』を広げれば、教え子の子どもに対して贖罪が出来ます。でも、それもかないません。私の場合は、私の教え子は既に40才以上です。彼ら、特に女の子は早めに妊娠するので、教え子の子どもたちの中には既に学校教育を終えて人もいるでしょう。そのような場合、私が出来るのは、彼らの孫に対しての贖罪のみです。
でも、同志の皆さんは、その子たちの子どもに対して贖罪が出来ます。いや、急げば、教え子に対して贖罪が出来ます。うらやましいと思います。私が『学び合い』にたどり着いたのは、高校教師を辞めてから十年以上もたってからで、それを広げるには何が必要なのかを分かり始めたのは最近(つまり二十年以上も後)です。
本日も、過去のテレビドラマ的な教師像の私を思い出し、研究室の中で号泣してしまいました。皆様、お力をお貸し下さい。