■ [大事なこと]教師教育
人は自分の経験に基づいてものを考えるものです。私もです。
教員養成系大学の教師としては異常な考えを持っています。それは、大学・大学院における指導技術の教育は無意味だという考え方です。
私は大学院を修了して暴走族がウジャウジャいる学校に勤めました。そこで数日で学んだことは、大学・大学院で学んだことは、無意味であることです。あれは、学ぶ構えのある子どもには意味があります。しかし、学ぶ構えの無い子どもにどう教えたらいいかは、だれも教えてくれませんでした。
もちろん私の初任校は極端だと思います。でも、結局同じです。どんな学校にも、私の初任校のような子どもはいて、教師の悩みの圧倒的大部分は、その少数な子どもから発するのです。
そのような学ぶ構えの無い子どもにどうしたらいいか、それを乗り越えたのは3つのことです。それは、そのような子どもに対してでも、教師としてのスタンスを守っている尊敬すべき先輩がいました。だから、子どもを否定することをやめ、自分に問いました。
そして愚痴を聞いてくれる先輩がいました。その先輩にあこがれました。でも、自分に出来ることと出来ないことあります。それを、それでもいいと言ってくれる先輩がいました。それで何とか出来ました。それを「7つのルール」に書きました。おそらく一斉指導で普通の教師が一定以上の授業をするに必要なことは、そこに書き切ったと思います。
しかし、そこに書いているだけでは、いわゆる教師ドラマの再現しか出来ません。親や兄弟をモデルにした教師では限界があります。一定以上の子どもを見捨てます。そして、子ども同士の関係を崩します。それは『学び合い』を理解するまでは分からなかった。
だから上越教育大学の教職大学院および教職デザインコースでは、臨床力と協働力をキーコンセプトとして構築されました。それは『学び合い』云々では無くとも、大事なことです。私の初任校レベルの教師になれるエッセンスがあります。
結局、教師の職能は大学・大学院で本当には育てられません。それは自分が1年つきあわなければならない担任、担当する子どもたちの前でしか成長できないのです。では、上越教育大学の教職大学院及び教職デザインコースで育てられること、それは、最初の1年、教職に誇りを持てない教師にならないためのソフトランディングです。たった1年です。でも、その1年の過ごし方で、その後の教師人生が変わると思います。だから、上越教育大学の教職大学院と教職デザインコースでは現職院生、そして現場学校の教師との協働をものすごく大事にしているのです。
で、我がゼミは、集団を見取ること、個に拘らないこと、そして一人も見捨ててはいけないことを学ばせたい。
追伸 ま、私と違う考えのいろいろな教師がいて、互いに尊敬し合っている、ということが我が専攻の最大の強みです。
■ [大事なこと]入門
本日のゼミでゼミ生の現職院生の方と長く議論しました。『学び合い』の本質を分かっているゼミ生がなかなか理解してもらえない理由が分かりませんでした。でも、ゲートキーパーとなってくれた院生の言葉で分かりました。
私が本に書いていること、それは入門者用のことです。基本が何かを分かってから、それを捨てるのはありです。しかし、基本を学んでからです。
私が本に書いたこと、それは万人受けしないこと、それは百も承知、二百も合点です。受けるだけなら、足して二で割る『学び合い』の方が受けやすい。だって、十数年前の我がゼミはそれを『学び合い』としていました。しかし、それは受け入れやすいけど、「な~んちゃって」になりやすいことを知っています。何故なら、今までと何が違って、何が同じかがハッキリ分からないからです。だから、いつのまにか「な~んちゃって」になるのです。
もう一つは、足して二で割る『学び合い』は受けやすい。でも、それで一定以上の成果を上げるには、才能と経験が必要です。十数年前に『学び合い』にトライしている人はそれが出来る人だけでした。その頃は、『学び合い』が変質するのを恐れて、意図的にノウハウを書くのを避けました。ところが、それでも出来る人がいたのです。そういう人は、足して二で割る『学び合い』の不備を、その人の一斉指導の能力で補っていました。
でも、それは全ての教師が出来ることでは無い。『学び合い』は受け入れがたいかもしれませんが、一度受け入れれば、ごく普通の教師でも一定以上の成果は出ます。何故なら、足して二で割る『学び合い』、そして一斉指導は授業者本人の能力、才能、経験に頼る部分は大きいですが、『学び合い』は子ども集団の能力に頼る部分が多いのです。つまり、教師個人の能力、才能、経験に頼る部分が少ないのです。それが、それがある人には分かりにくいのです。
私は子どもを一人も見捨てたくないですが、教師も一人も見捨てたくない。だから、本人の能力、才能、経験に頼らない『学び合い』を追求しています。もちろん、「受け入れにくい」という欠点があります。でも、それを乗り越えるために、足して2で割る『学び合い』では無く、教師集団の『学び合い』を模索しています。それが合同『学び合い』です。が、なかなか分かってもらえない。
■ [お誘い]求む、攻めの校長
どんな集団でも「×」は2割で、「○」は2割で、6割は普通です。教員間の愚痴では「×」の校長が話題になりますが、そんな人は殆どいません。でも6割、つまり過半数の校長は可も無く、不可も無くです。与えられた任期を「そこそこ」で過ごすことを願っています。悪いことではありません。日本の教育の不易な部分を守っているのは、その方々です。
集団は変化しなければなりません。もし「不易」だけならば、集団は必ず緩慢な死に至ります。だから2割の人が変化にトライするのです。
『学び合い』を世に出した十数年以上前から、多額のお金と時間をかけて我が研究室に学びに来る人はいます。今から5年以上前に「校長」が学びに来ました(その頃はとても印象的でしたhttp://p.tl/yGlW)。ところが最近ではごく普通に来られます。来週は青森から二人の管理職が来られますし。その後は「和歌山から十人弱の管理職」、兵庫からの管理職、佐賀からは十人程度の管理職、秋田からは5人程度の管理職が来られることがすでに決まっています。その方々は『学び合い』ジャンプアップで書いたことを学びに来られるのです。すでに、教室の『学び合い』から学校の『学び合い』にシフトしたのが広がりつつあることを実感します。
全国の管理職の方にうったえます。どうぞ、おいでください。私が書いたものが本物であることを、どうぞ、その目で見てください。そして、どのように学校に広げたらいいかのノウハウを伝授いたしましょう。
荒れた学校の校長や職員は「守り」に入りますし、隠そうとします。気持ちは分かります。でも、本当は「荒れ」た学校は、私的にはとても美味しいのです。だって、「荒れ」させるには、かなり賢い子ども(少なくとも人間関係に関してはしたたかな子ども)が一定数いることを意味しています。そして、そんな学校だったら「何とかしたい」と願っている教師は一定数います。その教師がまず『学び合い』で動けば、おそらく「魔法」としか思えない変化が1ヶ月以内に実現できます。
大見得を切ります。ステップアップ、ジャンプアップに書いたとおりのことをやれば、ただし、本当に書いたとおりのことをやるならば、人間関係に関しては目に見えた変化が1ヶ月以内に起こることをお約束できます。2割の攻めの校長を大募集です。
追伸 もちろん、「荒れ」だけではありません。何らかの学校課題を持っている学校の校長を大募集です。『学び合い』はどんな課題にも対応できます。困るのは課題意識の無い学校です。