■ [大事なこと]授業における教師の仕事
毎日、子どもの前に立って、毎日、自分の仕事は何かと問いかけた時の応え。圧倒的大多数の授業においてです。
1. 時間になって教室にいて、時間まで教室にいる。
2. 子どもが静かにしている。
3. 大多数の子どもが分かって、楽しい授業をする。
ここまでが普通の状態です。私が採用して1ヶ月以内に1になりました。
4. 普通に教えたら、実は自分の教え方にフィットするのは2、3割程度。だったら、教えることは無理、だったら分かった気にさせよう。面白おかしい授業をしよう。
5-1.2割、3割を4割、5割、6割にしよう。10割に出来る名人教師なろう。
5-2.授業には限界がある、部活指導に燃えよう。
5-3.私には家庭がある。それなりの仕事をすれば十分だ。
ここまでは今の授業の限界です。
6. 学力向上と人間関係づくりは矛盾しない。むしろそれを融合しない限り、安定した結果でない。教科の時間に人間関係を語り、道徳・特活の時間に教科学習を語らねば。その時の一貫する方針は。
7. 結局、子どもは教師を教材や指導法ではなく、人間性で見て判断している。だったら、自分は何を持って教師たり得るのか。
自分が聖人君主ではなく、ごく普通の教師ではなく、解決出来ない問題に悩むでしょう。
8. 自分のクラスの問題を、学年・学校の問題と捉えよう。教師集団の支え合いによって解決しよう。あれ!子どもと同じじゃない。
ここで悩みます。どう考えても救いきれない子どもが見えてきます。自分の目の前だったら救えるかもしれませんが、でも、解決出来るわけないと思います。
9.あそうか、子ども集団を創れば良いんだ。卒業しても支え合う集団を創れば良いんだ。
10.あ、そうか、保護者や地域の人を巻き込んで、毎日合う人がおりあいをつけつつ、支え合えば良いんだ。
幸い「9」までをリアルにイメージ出来る人がかなり生まれてきました。今は「10」をイメージ出来る方を大募集中です。
私の三十年弱の紆余曲折のダイジェスト版です。
■ [大事なこと]当たり前のこと
私は『学び合い』に関する質問に対して即座に対応します。そして、最初から当たり前のことを言います。当たり前すぎて、反発する方や、へ理屈だと思う人がいます。でも、当たり前のことを愚直に繰り返します。ダイエット方法は「食べ過ぎず、適度な運動」です。みんな知っています。でも、多くの人は難しげな理屈をこねくり回し、新規な理論や方法に走ります。何故か、当たり前のことをやり続けることは大変ですから。でも、それしかありません。
私の言っている当たり前のこと。勉強は本人がやる気になるしかない。やる気がなければ、どんな教材も指導法も無意味。子どもは多様。やる気のスイッチは多様。教師が使える教材や指導法は一つだけ。だから、無理。無理だと認めて、一人で抱え込むのではなく、子どもたちと一緒にやりましょう。教師の仕事は教えることではなく、支え合う集団を維持、高め会うこと。
私に対しての反論は大抵は感情論に陥ります。その感情論を私への個人攻撃と、論と無関係な個人攻撃、に陥ります。残念です。そして、賢い方は攻撃せず、共存の道を探ります。ま、そのうち分かります。
■ [嬉しい]可愛い
昨日は本学の学部学生さん(他コース)が『学び合い』を学びたいと希望したので会いました。私は上越教育大学の学生さんの中では知られていません。何故ならば、本学の教務上のルールによって、私は他コースの学生さんに授業をすることを禁じられているからです。
ちなみに日本理科教育学会の学会賞は過去8人しか受賞者がいませんが私はその一人です。その私は大学で理科教育学の授業をすることが出来ないのです。
そのような状態で、先のお申し出を頂いたので、ビックリしました。
見るからに好青年。付箋を一杯つけたジャンプアップとステップアップを持参してきました。その子に色々な話をしました。おそらく10ぐらいの話を聞くつもりだったのが、1000ぐらいの情報にさらされて、頭がぐるぐるしたと思います。おそらく、その学生さんが一番ビックリして、言葉通りに口をアングリしたのは私が以下を語ったときです。
「『学び合い』は教科の内容を理解することを目的としていない。ましてやテストの点数を上げることを目的としているわけでもない。人間関係の向上を目的としているわけではない。『学び合い』を実践すれば結果的に教科の内容を理解し、テストの点数は上がり、人間関係は向上するだろう。でも、それは結果的にであり、目的ではなく途中段階の手段に過ぎない。」
と語ると、「『学び合い』で勉強が分かるのか?」を聞きに来た学生さんはビックリしました。そこで
「『学び合い』の目的は子どもの一生涯の幸せが目的。いい、自分が担当する1年の幸せではなく、自分の担当しなくなった後の七十年、八十年、九十年までも先の幸せを保証すること」と言いました。
最初はレトリック(修辞)だと思っていたようですが、私の表情を見て本気で信じていることを分かったあたりで、普通だと思った人が急に吸血鬼に変身したように、私が変な生物に見えたのでしょう、口をアングリしていました。
そのあと、仲間作り、地域コミュニティの再生の話をしたら「頭では納得しました」と言ってくれました。そこで生を見て欲しいので、来週、参観の段取りをしました。
知識・技能の量の増加ではなく、質の大転換を目の前にするのは教師の醍醐味ですね。
その学生さんから以下のメールを頂きました。
本日はお忙しい中、話を聞かせて頂き有難うございました。
また、学び合いの授業を見せて頂けることになり、重ねてお礼申し上げます。
学び合いとは、1人も見捨てないことを信念として、子どもたちが一生幸せになるためにするものだと、教えて頂きました。はじめは突拍子もない話のように思いましたが、説明を聞くうちに、「確かにそうだな」と納得する自分がいました。まだ頭の中の合点でとどまっているので、授業の様子を見せてもらい、自分の体で感じられたらと思います。
本日話を聞かせて頂き、これまでの教育に対する考え方が、大きく変わりそうです。
今日は、本当に有難うございました。
■ [大事なこと]一斉指導
私の『学び合い』の授業は、最初に課題を出して、さあどうぞ、です。学生さんが話をしている間は学内を歩き回って、ダラの目やコシアブラを取ってきます。
が、本年度は徹底的に私との議論です。
その議論の中で出た質問で面白かったのは「何故、この講義では一斉指導なのですか?」という質問です。私の応えは「『学び合い』が成立する前提は、教えられる学習者が一定するいること。でも、それが今成り立っていないから」と説明し、納得してもらいました。
でも、その学生さんには、板書も発問もなく、自由に私に議論をふっかける形式も一斉指導の中に組み入れていることに頼もしく思いました。
でも、禁断の味です。教えたがりの私としては、徹底的に様々な学生さんと議論する時間は「快感」です。ただし、一番の快感、そして涙を流すほど感激するのは、私が論破するときではなく、私が論破されるときです。