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2009-03-01

[]誤解をとく 22:21 誤解をとく - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 誤解をとく - 西川純のメモ 誤解をとく - 西川純のメモ のブックマークコメント

 熱意ある学生さんが企画を持っています(http://ameblo.jp/hero-smile-synergy/entry-10212107687.html)。この企画自体はこのブログでも宣伝しているところです。そこで、「最近、教員・学生の中で注目されている『学び合い』。提唱者である西川純氏は、子どもたちの関係性を大切にしているがゆえに、従来の一斉指導を批判し、教 師は子どもたちに教える必要はない、と言っています。しかし、西川純氏が提唱している『学び合い』は「一斉指導」を本当に不要だといっているのでしょう か?」と問われています。

 困ったことに、私は「本当に不要だと」思っているのです。しかし、「ここは『学び合い』が良くって、ここは一斉指導が良い」という落としどころに落とした方が「良い」ということは、いくらバカな私でも分かります。そこで、1週間前に『学び合い』より一斉指導のほうが良いことはありませんか?と公開質問状をブログに出しました(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20090223/1235393745)。その結果、とんたんさんより「多くの小学校教師は自分の授業を一斉指導だと思っていないのです。上記の構図では、善VS悪のよう な単純な構図ですが、実際の現場では異なります。あなたは一斉授業をやっているのですか? と聞かれると、「いいえ、教えることと子どもに学び合わせるこ とをその状況に応じて行っています」と答えます。40代以上の教師(地方では平均年齢です)の教師は、一斉授業がよくないことを十分に知っているのです。 そして、自分の授業が一斉となんら変わりのないことに気がついていないのです。だから、難しいのです。」とのご指摘を頂き、腰を抜かすほどビックリし、そして、納得しました。あわてて、「普通の授業」という回りくどい表現を採用しました。

 しかし、結果として、今のところ私が書いた、「私が知る限りの『学び合い』より普通に行われている授業の利点は、「それほど教えたくないと思っているとき、何も考えずに授業をするのは普通に行われている指導の方が楽」というものだけしか見いだすことが出来ません。

 クラスの8割以上を「分かった気にさせる」(分かったではありません)、クラスの6割に受けて、残りの半分(全体の2割)強もそこそこ受けるレベルならば、手練手管を使えば普通の授業でも可能でしょう。しかし、結果として、下の「贖罪」のような結果を生み出します。

 私の志の最初は、分かった気にさせるではなく、クラス全員を分からせ、クラス全員が楽しい授業を実現することです。そして、現在の志は、クラス全員が幸せに生きられる大人となり、日本を変えることです。これは、普通の授業では不可能です。と思っています。

 人を説得する際、長所と短所を整理して話すことが有効です。ところが、短所が見あたらないのです。もちろん短所はありますが、一斉指導(いや普通の授業)の短所が酷すぎて、それよりは「まし」なんです。

 困った・・・・

追伸 なお、私は教師は教える必要はない、とは言っていません。私が言っているのは、子どもでも教えられることを、教師が教える必要はないと言っています。教師にしか教えられないこと、具体的には「人の道を語ること」はちゃんと教えるべきだと言っています。しかし、残念ながら「普通の授業」では、子どもでも教えられることばかりを教えて、教師にしか教えられないことを教えないので、子どもにも教えられることを教える必要はないというと、全て教える必要はないと誤解してしまうのです。これまた困ったもんです。先の企画は、この誤解を解いてくれる誤解と期待してるんです。

[]贖罪 17:07 贖罪 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 贖罪 - 西川純のメモ 贖罪 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先週の木曜日、あるゼミ生とつっこんで話しました。話せば、話すほど、私の若い頃に似ています。そして、きっと私と同じような失敗をするでしょう。

 『学び合い』を知れば、それまで自分がしていたことが恐ろしくなります。どれほどの子どもに被害を与えてたかと・・。そして、私の教え子の場合は、皮一枚で学校とつながっているような子どもです。そして、学校とのつながりを切れば、あとは奈落の底です。私は善意から、その一枚を切っていたのだと思い、恐ろしくなります。

 ゼミ生に、一般の「良い先生」を目指すとどのようなことが起こるか、そして、そのまま10年、20年たつとどうなるかを詳しく語りました。でも、語れば語るほど、自分の教え子のことが走馬燈のように思い出され、空恐ろしく、また、悲しくなり、学生の前で不覚にも辛くてウルウルしてしまいました。

 私の教え子に対して贖罪のしようがありません。せめて、東京都八王子市近郊の学校に『学び合い』を広げれば、教え子の子どもに対して贖罪が出来ます。でも、それもかないません。私の場合は、私の教え子は既に40才以上です。彼ら、特に女の子は早めに妊娠するので、教え子の子どもたちは既に学校教育を終えているでしょう。私が出来るのは、彼らの孫に対しての贖罪のみです。それを計算してしまいました。

 でも、同志の皆さんは、その子たちの子どもに対して贖罪が出来ます。いや、急げば、教え子に対して贖罪が出来ます。うらやましいと思います。私が『学び合い』にたどり着いたのは、高校教師を辞めてから十年以上もたってからで、それを広げるには何が必要なのかを分かり始めたのは最近(つまり二十年以上も後)です。

追伸 その贖罪のために、ある本をチマチマと書いています。