■ [大事なこと]専門教育
私はその道の専門家になるための教育と一般教育は完全に分けています。理由は専門家になるための教育は、一般教育の延長上にあるとは思っていません。専門家はそんな程度では無いと思っていますから。
私は多くの人に博士の学位を与えました。その多くは修士で指導した人です。しかし、修士における研究と、博士の学位を取得する人の研究は別です。だから、修士の指導をした人が博士を取りたいと言った時、その際に必要な覚悟を聞き、いくつかの条件を確認します。そして、修士の指導とは別種の指導をし始めます。立派な修士論文の延長上に博士論文はあるわけではありません。
私は、小学校、中学校、高校でどんな指導をしても、深い読みや、深い社会認識が育つとは思っていません。週に数時間で育てられると考えているとしたら、そりゃ、深い読みや深い社会認識に失礼だと思っています。与えられるとしたならば、それを体現した教師の生き様の「香り」だと思っています。小中高で教えられるのは、テストテクニック・受験テクニック程度です。それレベルだとしても、全員がそれを達成するとしたら、素晴らしいことが生まれると思います。
私は小中高と理科が好きで、数学が好きでした。しかし、大学に入って分かりました。小中高で学んだことは、それらには繋がりません。
数学でやっていること、それは計算すること、証明することです。ところが、大学でやる数学は、計算が可能である、証明が可能である、ということを扱っているのです。次元が違います。高木貞治の解説学概論の最初の部分はひっかりまくりましたが、20ページを超えた頃になると、数学の世界の片鱗にはじめて触れたように思いました。
大学でファイマン物理を読んだ時、高校までにやったことは以下に馬鹿馬鹿しいことだと思い知らされました。高校で何も学ばなくても、大学から物理を学んだ方がスッキリ分かります。
大学の生物学を専攻するのに、高校までの生物の授業は不要です。数学や物理より、はるかに別種のことをやっています。
私は理系で、そんなことを感じましたが、文系の方も同じだと思います。「棒線の部分を示す5文字の言葉は何か」の先に大学で学ぶものは無いと思います。
『学び合い』はとてつもなく単純なことを子どもに求めます。ただし、全員が分かることを求めます。というか、それを諦めないことは自分にとって得であるという、対人関係の戦略を学ばせます。きっと、教科で頑張っている人には、「点数を上げるだけの教育」と思うでしょう。でも、その先に子どもを進ませるためには、子どもにその先に進ませたいと思わせるしか無いのです。そのためには、その人の生き様が大事です。これはもの凄く大変なことです。子どもに何を語るかではではありません。(この部分は超難解だと思います)。重要なのは、自分が何故、その教科を教えているかという確信です。その確信は、子どもでは無く、自分のコントロール出来ない伴侶に納得して貰えるレベルであらねばなりません。
そう考えれば、普通考える教材研究では無理であることは自明だと思います。