■ [大事なこと]部活
本日、ある人から「西川先生は部活は今後はどうなると思いますか?」と聞かれました。
私は「縮小され、無くなる方向だと思う。」と直ぐに答え、ビックリされました。
まずは法的根拠です。部活に関しての法的位置づけは曖昧です。関係法令に書かれていません。学習指導要領にも書かれたり、削除されたりです。そして、文科省の立場は、今はハッキリ言って否定的(まあ、肯定的ではありません。http://goo.gl/UDdCvJ)です。
では、何故、中学校・高等学校の教師は部活指導のために土日はないのか?
第一は、保護者にとって学校の存在意味は「保育園」だからです。共稼ぎの核家族が進むにつれて、それが明確です。ある保護者が、「私は働いているのだから、土曜日も学校もやって欲しい」と言ったそうです。非常識ですが、本音はそうでしょう。
私は不思議でしょうがありません。何故、組合がそのあたりを訴えないのか?おそらく、これを法的闘争をすれば、まず、勝ちます。
なぜそうしないかといえば、教員の中には土日の部活をしたがっている人がいるのです。そして、その多くは志があり、指導的立場の人だからだと思います。
でも、おかしい。教員も親であり、夫であります。土日無しが常態化しており、数千円で安易に使われているとしたら、ブラック企業です。
教師を目指したからは、子どもを本当に幸せに出来る、大人に出来る職業だと思っていました。ところが、暗記をさせたり、生徒指導に明け暮れる毎日です。満足できません。そこで部活でガス抜きをしているのです。
ある方は、部活でガス抜きをしないと子どもが爆発する学校もあると仰っていましたが、それは違います。ガス抜きしているのは子どもばかりではなく、教師もです。
では、何故、私は部活は必要でないと思うかと言えば、教師の勝負所は教科外ではないと思うからです。毎日の教科活動が部活のように人の道を語る場であるべきだと思います。
そのようになれば、土日も子どもたちが集まって勉強すれば良いのです。そうすれば保護者も保育園が必要なくなる。部活に才能を生かす子どももいるでしょう。それは社会体育で生かせば良いのです。
もちろん、その方には、来年出来ること、5年後に出来ることもちゃんと語りました。
でも、強く訴えたい。中高の教師も夫であり妻であり親なのです。子どもには親は必要です。伴侶が必要です。部活のしすぎで家庭を失う教師がいてはいけない。そのために、年長者は上記を繰り返し語るべきです。若い人は言えないのだから。そして、部活でしか生きがいを感じられない教師に、教科学習で生きがいを感じる道を示したい。
■ [大事なこと]教科教育学
私の元々の専門は理科教育学です。それと同じように、それぞれの教科にはそれに対応した教科の教育学があります。私はその行く末を案じます。
現状は大学院を持つ大学では、必ず各教科の教科教育学担当の教員が2名以上います。また、大学院がなくとも免許を出せる大学の場合、各教科の教科教育学担当の教員は1名以上います。そのため、教員養成系大学において最も多くのスタッフを占めているのは教科教育学なのです。
数学や物理や医学などは、その社会がどんなに変化しても残ります。ところが教科教育学は法に根拠があります。それも施行規則の附表に根拠があるのです。つまり、文科省の課長が稟議を出し、省内で合意をされたら、消えて無くなります。
そんなことはないだろう、とみんな思っていました。ところが大学院設置基準に関する告示である「大学院に専攻ごとに置くものとする教員の数について定める件」をちょっと変えただけで、教員養成系大学の人事の根底が覆ってしまいました。
今、日本は右肩上がりではなく、右肩下がりの社会になっています。財務省からの圧力も大きい。それはハッキリと現れています。教員養成系大学は説明責任を果たさなければ限りなく縮小します。そして、その影響を最も大きく受けるのは教科教育学です。
それを憂います。学校現場から必要とされる教科教育学になるべきです。具体的に、研究大会のお飾りではなく、学校の研修に呼ばれる研究者にならねばなりません。学術論文を書くだけではなく、その成果を実践書としてまとめ、そしてそれが商業ベースに乗らねばならない。これが現在、弱すぎます。
■ [大事なこと]変えて!
私は高校2年の3学期まで勉強らしき、勉強を一度もしていません。その代わりに本を色々読みました。文庫になるレベルの古典を読みあさりました。宗教本にも凝りました。キリスト教は外典や悪魔学まで、イスラム教も、日本の仏教は各宗の宗祖の本を読みあさりました。息子の今の生活を見ていると、何であんな本を読めたのか不思議です。でも、理由は明らかです。勉強しなかったからです。そのため、小中高とも家から一番近い公立です。そして1年間の受験勉強でなんとか筑波大学に滑り込みました。
今、息子が勉強するように徹底的に管理しています。しかし、息子のやっている勉強が、彼が大人になったときに役に立たないことをハッキリと確信しています。勉強させる代わりに、彼が望むままに本を読ませ、旅をさせた方が、ずっと役に立つに決まっています。が、そうすると今のシステムでは丁半ばくちです。
夏目漱石の全巻を読ませたいと思いませんか?
その子が英語が好きならば、高校までに英検1級をとらせ、海外留学をさせたいと思いませんか?
その他、その子の才能があるところを徹底的に伸ばすことを許してあげたいと思いませんか?
特別な支援が必要な子にみんなと近い力を与えるのではなく、その子が持っている得意なところを伸ばさせてあげたいと思いませんか?私は特別支援教育とは、その子の才能を見いだし、伸ばす教育だと考えています。
アクティブラーニングは教育方法の改革だと思われています。しかし、その先には子どもが学習内容の選択も能動的になれるよう変化する必要があるのです。
教師の皆さん、我が子を将来必ずしも役に立たない1次元の軸での競争に勝つ子に育てたいですか。私はそう思わない。息子の時代には間に合わないけれど、孫の時代には「まし」にしたい。
ググれば直ぐに分かる知識を覚えるなんて馬鹿げています。今後、機械翻訳が進んだとき必要な知識とは、今の英語力ではなく、海外の人が自分とは異質であることを理解し、それでいながら理解し得ると思えることだと思います。
数学者になりたい子どもならば、中学生の時から現在の大学の数学の教科書を読ませたい。その時間を生み出すために、ある教科を全く勉強しなくても良いようにさせたい。