■ [大事なこと]アクティブ・ラーニング
最初に申しますが、以下は安保法制に関しての議論ではありません。
ネットサーフィンをしていると、安保法制に関して様々な記事がアップされています。その中に、Aを主張している人に対して、非Aが一言いうと、Aの人がすごすごと引き下がるという図式の記事がかなりあります。これって非アクティブ・ラーニングだと思います。あまりにも、社会的能力が足りない。
Aの主張に矛盾があると非Aが突っ込んだとしたら、何故、Aがそれに対して反論できないのでしょうか?そして、Aがすごすごと引き下がったとしたら、非Aの人がAの人を呼び止めて、その人のAの主張の真意を問わないのは何故でしょうか?Aも非Aもそれなりの理がある。それを突き詰めて議論し、どこが分かれ目なのかをAも非Aも探ることを両者でやるのがアクティブ・ラーニングで育てる力です。そして、両者の対立のないBを探ったり、とりあえず、先延ばしするための対処法を考えたりするのがアクティブ・ラーニングで育てたい能力と思うのです。
世の中の問題には正解がないのが普通です。多様な方法を柔軟にやり続けることが大事です。「多様」であること、「柔軟」であること、「やり続ける」こと、それが大事だと思います。
少なくとも、他人の子どもをあずかる公教育の教師にはとても大事な認識だと思います。
■ [大事なこと]コア
『学び合い』をトライする人、そして深める人、去る人、戻る人。
二十年弱、数千人の方々に関わっています。私のスタンスは、いずれに人にも等しく、無理ない範囲で誠実にです。
『学び合い』をトライする人は基本的に困り感がある人です。そりゃそうです。見た目、変ですから。困り巻がなければ、今まで通りのことをする方が楽です。気になる子がいる、心の病を患っている、自分は何のために教師になったのか分からなくなる・・・。
でも、圧倒的大多数は、その日の授業、その日の生活、長くても1年の授業、1年の授業のレベルです。そして、それらは、その日の授業を分からせられない、その日の子どもの理不尽な反応に耐えられない、その日の子どもの苦しんでいる姿を見ているのが辛い、です。
私もそうでした。
しかし、その日ではなく、その年ではなく、教え子が二十歳、三十歳、四十歳・・の幸せを考えられるようになり、自分が確かにそれをやっていることを感じられる人もいます。そうなれば、その日、その年に何を学ぶか、子どもの理不尽な行動、子どもの苦しみを相対化できます。そして、何をすべきかが見えます。自分が全てを解決できなくても、どのような方向で解決すべきかのビジョンが見えます。そうなれば、滅私奉公でやっている自分の姿を相対化できます。そして、自分が家庭を大事にすることが子どもを幸せにさせることが分かります。
でも、見た目が変わっている。それ故に、迫害は大きい。そして、周りに実践者がいなければ、相談者がいない。上手くいかなくなれば辛くなるのは当然です。
悩みますが、『学び合い』のセオリー通りのことをします。集団をどう動かすかです。結局、個々人の志に頼れる部分は少ない。幸い、私には同じ思いを持っている仲間がいます。もっと増えて欲しい。私を無視し、私の思いつかないことを勝手にやる人がもっと欲しい。いま、順調に増えています。退職までにはフェードアウトできそうです。