■ [う~ん]バタフライエフェクト
バタフライエフェクトという言葉があります。ある日、ある時の蝶の羽が生み出す風が遠い地での嵐になる(かもしれない)ということです。
「平成27年に当時の高等教育局長が早稲田大学に再就職したことに関して、人事課の職員が大学側に局長の情報を提供するなどの行為を行ったことが違反に当たるのではないかという調査を現在受けている」
高等教育局長が対象となると聞いて、心拍数が上がります。
どこに波及するか。末端の木の葉に過ぎない私は、怖くてしょうがありません。
■ [大事なこと]操る
世の中には子どもを、どうやって操るか、という本があります。いや、その手の本の方が多いでしょう。いわゆる、脅し、おだて方の本です。気持ちは分かります。
でも、それを教師-子どもの関係を、校長-自分に置き換えてください。そんなことを1ヶ月も続けていれば、校長のテクニックは見え見えではないですか?実は、子どもも同じです。少なくとも子どもたちの2割は大人の腹を見透かすのが得意です。
分かりやすい判別法があります。その本を子どもに見せられるか?と考えてください。見せられないとしたら、2割の子どもたちにせせら笑われます。そして、それに心から従ったふりをするでしょう。もし、見せられる本だったら、2割の子どもが教師と一緒に動いてくれます。
私の本は、全て、子どもに見せられるし、見せることを勧めています。当然のことならば、私自身の研究室ではそれをやっています。
■ [大事なこと]理解する
昨日の学習成果発表会で他の研究室の院生さんが「いい授業をするには、一人一人の子どもを理解することが必要だ。それによって、その場、その子に対して適切な言葉がけが出来る」と言いました。私は「子どもを理解することは無理だよ」とアドバイスしました。
結婚して二十年以上もたった家内のことを未だに理解不足です。家内からも「あなたがわからない」とたびたび言われます。我が子だってそうです。そんな私が他人の子どもを1年ぐらいで分かるわけない。そして、三十数人の子どもはなおさら理解できない。
じゃあ、どうするか?
集団を理解すればいいのです。コップいっぱいの水分子の挙動は分からなくても、コップいっぱいの水の挙動は分かる。だから、小さい子どもでもコップで水を飲めるのです。コップいっぱいの水が熱力学や流体力学の法則に従っているように、一定数の子どもたちを集団にすれば一定の法則に従います。それが『学び合い』のセオリーです。
が、教育の世界では安易に「一人一人の子どもを理解する」という言葉を使います。
私はその言葉の本当の意味を知っていると思います。
暴走族だらけのクラスで物理学を教えたときにそれを使っていました。クラスの中にはキーパーソンがいます。その子は、その集団の中である役割を演じます。例えば、ある子をいじくれば、必ず面白いことを言って、その子が言うと、クラスが爆笑する、というような構造が出来ています。ある子に語れば納得し、その子が語るとみんなが従う、というような構造が出来ています。最初は涙あり、笑いありのジェットコースターのような授業をしているうちに、その構造を読み取ります。そして、徐々に、その小数のスイッチを押すことによってクラスを動かすのです。
つまり、私はクラス全員の理解をしているわけではありません。ごく少数の子どもを理解しているのです。そして、その子を理解しているのではなく、その子のクラスにおける「役割」を理解しているのです。それだけのことをすれば、暴走族だらけのクラスで物理の授業が成立する。ましてや、普通のクラスだったら、もっと簡単です。
でも、それを「一人一人の子どもを理解する」というふうに言うのは反吐が出ます。何故ならば、圧倒的大多数の子どもを何も理解していない。そして、その技術が上手ければ上手いほど、教師がいないときに集団がどうなるかを私は知ってしまった。
■ [お誘い]アクティブ・ラーニングの評価がわかる!
「アクティブ・ラーニングの評価がわかる!」(学陽書房)が発売されます。
これを読んでいるアンテナの高い人だったら、授業のやりかたとしてのアクティブ・ラーニングはご存じだと思います。では、アクティブ・ラーニング時代の評価はどうしたらいいのでしょうか?
そこが、すっぽり抜けているように思います。
当たり前のことですが、教育には「目的」があり、それを実現するために「授業」があり、「目的」が達成されたかを「評価」するのです。従って「目的=授業=評価」なのです。アクティブ・ラーニング時代の評価を理解せず、アクティブ・ラーニングをすれば、とんでもないことが起こります。
例えば、教えた子どもにプラス20点するのような加点をします。これをすれば、子どもは本気で分からせようとするのではなく、教えた「ふり」をします。そして、教える子どもは偉いという枠組みを与え、「おしえて」といいずらい環境を作ります。
また、答申では『評価の観点のうち「主体的に学習に取り組む態度」については、学習前の診断的評価のみで判断したり、挙手の回数やノートの取り方などの形式的な活動で評価したりするものではない。』と書いてあります。つまり
「挙手の回数やノートの取り方」で評価してはアウトです。
そうなるとお手上げではないですか?
どうしたらいいのでしょうか?
授業が「主体的・対話的で深い学び」ならば評価も「主体的・対話的で深い学び」でなければなりません。じゃあ、どうするか?
「アクティブ・ラーニングの評価がわかる!」をご覧ください。
なお、毎度のことながら発売当初は混乱するのでネット注文より、お手近な書店に注文するか、大型書店で買うことを勧めます。