■ [ゼミ]卒論

昨日、卒業研究の発表がありました。ゼミ生の発表は見事でした。どの学会にだしても、博士課程の学生と遜色ないと思います。
さて、私はこの1年、学生を指導していません。まあ、お悩み相談にはのりますが、その程度です。論文を見ません。発表練習も聞きません。
学生が外に出す論文は私がチェックします。しかし、それ以前は何もしないのです。じゃあ、ゼミ生がどうやっていたかと言えば、ゼミ集団の中でもまれていました。
私の研究室の卒論は、3年生の段階では毎週1回議論します。その中で何をテーマとすべきか、どこがポイントとなるかを議論します。そして学生がデータを取るべきフィールドを確保し、必要な機器をそろえます。それが終わったら、放牧状態です。あとは、学生が主体的・協働的に解決します。
ま、『学び合い』の研究室ですから。
■ [大事なこと]投票

ある国の話です。
その国には人民議会があります。しかし、議事進行に関して、○○党が事前にチェックしています。その党の役員が人民会議に参加し、人民会議議長に指導・助言をします。大きな議題は党会議で審議され、そこで認められた時に人民会議の議題となります。党会議で認められない場合は人民会議の議題にもなりません。国民は、なんやかやいっても党会議が動かしていることを知っています。
その国で政変があり、西欧型民主主義になりました。ところが、国民は自らが本当に決定に関われるという経験をしたことがありません。そのため、政治参加の意識が低い。人民会議の時は投票したか否かを党の役員がチェックしていたので全員が投票しましたが、そのチェックがなくなりました。そのため、安心して投票しません。
さて、この国の投票率が上がるには何年かかると思いますか?
数年、いや、意識改革には十年ぐらいは必要だと思いませんか?
では、文章をちょこっと変えてみましょう。
学校の話です。
学校には生徒会があります。しかし、議事進行に関して、職員会議が事前にチェックしています。その生徒会担当の教員が生徒会に参加し、生徒会長に指導・助言を受けています。大きな議題は職員会議で審議され、そこで認められた時に生徒会の議題となります。職員会議で認められない場合は生徒会の議題にもなりません。生徒は、なんやかやいっても職員議が動かしていることを知っています。
生徒は18歳になりました。ところが、自分たちが本当に決定に関われるという経験をしたことがありません。そのため、政治参加の意識が低い。生徒会の時は投票したか否かを教職員がチェックしていたので全員が投票しましたが、そのチェックがなくなりました。そのため、安心して投票しません。
さて、子どもの達の意識を変えるために十年ぐらいは必要としたとしたら、いったい何歳から子ども達に本当の意志決定をさせればいいでしょうか?
世の中には、事細かな校則があります。中には教師自身もその正当性を説明できないものもあるでしょう。そして、その校則を変える権限を生徒会は持っていません。学校側の言い分もあります。しかし、それと同じことを日本の国会議員が一言でも言ったら、どう思いますか?例えば、「国民は詳しいことは分からない」、「国民はこのことを判断する能力が無い」、「国民は権利を使いこなせない」と国会議員が言ったらどうでしょうか?
教育基本法第1条には平和的な国家及び社会の形成者を育成しなければならないと書いています。若者の投票率が低いならば、その責任は学校にあります。
もちろん、子どもに全部任せろとは言いません。教師だって法律に縛られています。しかし、そうでないところはかなりあります。もし子どもに任せられないとしたら、それは子どもの能力の問題ではなく、教師の能力の問題です。
たしかに任せられない子どももいます。しかし、大人並みに物事を考えられる小学生もいます。そして、多くの子どもは大人並みに考えられる子どもの判断の方が、任せられない子どもの判断より妥当であることを判断出来ます。だから、集団が機能すればかなり任せることが出来るのです。
学校が啓蒙的専制君主による国家であってはならないと私は思っています。
その考えと、どのようにしたら自治的子ども集団が出来るかを、本にしました。「アクティブ・ラーニング時代の教室ルールづくり入門<子どもが主体となる理想のクラスづくり>」です。