■ [大事なこと]誰に伝えるか

私は多数の方と繋がり、多数の方からの情報が来ます。小心な私にとっては、心が乱される情報が流れます。それも相反する情報。
でも、『学び合い』のセオリーからそれを眺めています。
大多数の人は物事を論理や実証的データで判断していません。大多数の人は「あの人」がどう判断するかが判断基準です。「あの人」が判断した段階で、論理や実証的データはどうでもよくなります。「あの人」ならば判断しているだろうという期待があります。
どうも、相手方への憎しみから、中間層の人から「あの人」と思われない情報が多すぎます。上手くないな~っと思います。ことさら攻撃する必要はありません。自らが正しいであろう情報を穏やかに流せば良いのです。そして、情報だけでは動きません。人と、人との繋がりが、「あの人」に認められるベースです。
日本中の色々な人が、その人なりに良きことをしています。私と反する主張の人であれ、そう思っていると思います。上手く折り合いをつければ良いのに。もし、それが出来なかったら、関わらなくても良いのに。その代わりに、自分の主張を分かってくれる人を生みだせば良い。相手への攻撃は、その人が思うほど有効ではない。
と『学び合い』のセオリーから思います。
■ [大事なこと]デジタル教科書

記事によれば、デジタル教科書を解禁し「「追加機能」は国の検定対象とせず、各市町村の教育委員会などの判断で教科書会社が追加する形にする。」とあります。まあ、そうでしょう追加機能を検定するとしたら、現状の文科省のマンパワーでは不可能です。そして、現状のマンパワーでコントロール出来る範囲に押さえてしまえば、デジタル教科書である必要性は殆ど無くなります。
だから正直、本当かな?と思っています。もちろん、私的には良いことだと思うのですが、国がちゃんと考えて判断したとは思えないのです。
追加機能は国の検定対象としないとするならば、例えば学力テストの過去問を市町村教育委員会の判断で追加機能に加えたらどうなるのでしょうか?今までは物理的な紙媒体だったので、価格的な限界から追加することが難しかった。しかし、デジタルとなれば0円でいくらでも追加できます。そして、それが検定対象としなければいくらでも暴走します。
ツール、即ち方法でコントロールできなくなるならば、結果でコントロールするしかない。例えば、学習指導要領に即した標準テストを導入することになるでしょう。そこまでやるのだろうか?と思います。
最近、ある検定担当者と上記のことを聞きました。その人は「今のところ何も決まっていない」とのことです。私はそれが正しいところだと思います。単なるツールの問題ではありません。教科書検定制度を維持するか、放棄するかの問題だと思います。
お手並み拝見。きっと賢い担当者は私の予想を超える何かを出してくれるのだと思います。
追伸 もしくはフリースクールの扱いと同じように、花火を打ち上げてしまった後で、ことの重大さに気づき、なかったことにするか。