■ [大事なこと]喧嘩の仕方
定期的に何度もアップしましたが、喧嘩の仕方をアップします。
目の前に敵がいたとします。普通、それで頭がいっぱいになります。ところが冷静に指を数えれば明確な敵はごく少数なはずです。そして、その数は明確な味方と同数なはずです(その数が少ないならば、ご自身の問題です)。そして、大多数の人は、自分に強いられない限り、どうでもいい人です。
政治的な戦いは、このどうでもいい人が、相対的に、どちらの側につくかで決まります。
そのためには大義名分が必要です。古来より戦いにおいて大義名分を立てます。中国でよくあるのは「君側の奸を除く」というものです。
『学び合い』には「一人も見捨てない」という大義名分があります。さて、『学び合い』を否定する人の大義名分は何があるでしょうか?少なくとも従来の一斉指導で「一人も見捨てない」と標榜出来るだけの厚顔無恥の人は殆どいません。では、「一人も見捨てない」に匹敵する大義名分があるでしょうか?私は無いと思います。この段階でかなりのアドバンテージがあります。
次に、結果を出し、強くなることです。幸い、セオリー通りやれば成績や人間関係の結果を出すためのノウハウは整理されています。強くなりさえすれば、賢い敵は沈黙を守ります。もの凄く賢い敵は、折り合いを付けた取引をします。結果として、敵としてのこるのは、愚かな敵だけになります。愚かな敵が、感情的な表現で、論を吐けば、愚かな敵が「そうだ、そうだ」と同意するでしょう。でも、その論が愚かであれば愚かであるほど、中間層が離れます。つまり、自滅するのです。
一人も見捨てない我々は、その敵を見殺しにするのでしょうか?そんなことはしません。ただし、そのあたりの人に何を言っても変わらないし、状況を悪化させます。だから、全体を変えることに力を注ぎましょう。状況が変われば分かるようになるでしょう。それはクラスにアスペルガー傾向のある子どもがいたときに、その子を学びの輪に入らせる過程と全く同じです。
■ [大事なこと]勝てない理由
私は生徒から「何故、理科を勉強するの?」と聞かれました。大学の学部・大学院で教えてもらったこと、学会で言われることを語りました。しかし、それらは単純な事実と論理であっさりと論破されます。今はその理由が分かります。
教師の言っていること、学会で言っていることは、その単元の学習のため、つまり数週間の中でクローズしています。それよりも長期間になると急に実証的データに裏打ちされない抽象論になってしまいます。だって、その教科のある単元の学習が別な単元の学習にどのような影響を与えるかに関する実証的なデータは非常に少ないです。教科を超えた研究だとほぼ皆無と言っていいでしょう。
子ども達は、10年、20年のレベルの学ぶ意味を議論するのです。具体的な事実と単純な論理でそれに立ち向かっていくのです。具体的事実を持たない教師が勝てるわけありません。
私の子どもは率直に「何故、勉強するのか?」と聞きました。多くの子どもとの違いは、率直に聞いたか否かの違いだけで、それを疑問に持っていることは同じです。胸に手を当てて下さい。教員採用試験の問題を解くときに、「なんで、こんな問題を出すの?」と舌打ちしたはずです。
■ [嬉しい]三重
7月に三重の津で『学び合い』によるアクティブ・ラーニングの話しをする機会を得ました。『学び合い』関係で三重で講演するのは初めてです。
今までに『学び合い』関係で呼ばれていない都道府県は、岩手、茨城、愛媛、徳島、熊本、鹿児島の6県だけになりました。
■ [大事なこと]離
昨日、ゼミ生と話し合っているときに思いました。
私はありとあらゆる側面から『学び合い』のテクニックを書きまくっています。しかし、それはカリスマ教師ではないごく普通の教師が安全・確実に『学び合い』を成立させるためのテクニックです。西川ゼミは『学び合い』で運営していますが、私が書いた本のテクニックを私は全く使っていません。
その姿を紹介します。
ゼミ生は学部3年5名、学部4年5名、大学院1年11名、大学院2年11名の全32名で構成されています。(大学の平均は学部3年1名、学部1名、大学院1年2名、大学院2年2名の全6名)
ゼミは全体ゼミと個人ゼミに分かれています。全体ゼミはゼミ生が主体で運営されており、どのように運営しているのか私は知りません。そのゼミに出席して欲しいとゼミ生から求められたときに出席します。年間にごくわずかな回数です。話す内容はゼミでの意志決定の場面で、その決定をしなければならない背景を5~10分程度話します。
ありとあらゆることをゼミ生に任せています。その際のルールは「出来るだけ多くのゼミ生で話し合って決める」だけです。単純ですが強力です。
個人ゼミはゼミ生が5~11人の範囲で集まり、私と議論します。各人の個人的テーマに関して私に質問します。ただし、1対1ではなく他のメンバーと一緒にです。その姿はユーチューブで公開されています。集団的な個人ゼミをする理由は、私と1対1だと私に甘えてくるからです。そして私の説明が分からないとき、岡目八目の他のメンバーが補足してくれるからです。
私は日本全国で講演して、膨大な本を書きます。それが出来るのは、ゼミのバックアップがあるからです。私が書かなければならない書類の99%はゼミが作成します(機密を要する人事関係等はもちろん除外しています)。大学の事務から書類作成を求めるメールが来ると、それをゼミ生に転送します。ゼミ生が作成して私の所に返送します。中にはゼミ生が事務の方に提出します。事務の方は怪訝な顔をしますが、「西川ゼミの学生さんですか?」と聞き、そうだと伝えると受け取ってくれます。
では、私は何をしているでしょうか?
明確な課題をつくるでしょうか?否です。課題はゼミ生がつくります。
評価はするでしょうか?否です。評価は自分自身でします。
ましてやネームプレートなんか使いません。
可視化はしません。見取りもしません。(まあ、昼飯を一緒にしますが)
言葉がけもしません。女子学生がいないときは中学生レベルの下ネタで大笑いしています。
では、私は何をしているでしょうか?
数百万円単位のお金を引っ張ってきてゼミ生に使わせます。
私のネットワークを使って、色々な人と繋げます。
ゼミ生が困っていると、学内政治で解決します。
でも、一番大事なことだと私が思っていることは、ゼミ生が絶対に信じられない夢を本気で信じて、繰り返し語ることだと思っています。それが出来るのは『学び合い』のセオリーを理解しているからです。
入門者にとっては意味不明だと思いますが、『学び合い』の奥義みたいなもんです。守破離の離です。
追伸 経営学者のリッカートによれば、生産性の高い研究室は上記の通りです。