■ [大事なこと]3種類

本日、ある新聞の取材を受けました。質問は「アクティブ・ラーニングとは何ですか?」です。私の回答は以下の通りです。
同じアクティブ・ラーニングといっても高等教育局のと初等中等局のとは違う。前者は日本のトップ校をアイビーリーグにすることによって、日本の産業を守る天才を養成しようとするもの。だから、アイビーリーグでやっている教育、また、アイビーリーグでの教育に耐えられる高校生を養成する教育。日本の5%の子どものためのエリート教育。初等中等教育局のアクティブ・ラーニングは国民教育としてのアクティブ・ラーニング。具体的には、正規採用される教育。今は非正規採用される人が増えているけど、それは何故か?もし、正規採用の給料分以上を稼げる人ならば、企業は何人でも正規採用で採用する。だって、利益を生み出す人なのだから。しかし、正規採用の給与分を稼げない人は、非正規採用として採用する。今の日本の教育は、今の日本で正規採用されるような人を育てられないから非正規採用が増えている。もし、人工知能や機械で代替えされない、主体的で対話的で深い思考が出来る人ならば企業は正規採用する。
記者の方からは、「で、西川先生の考えるアクティブ・ラーニングは?」と聞かれたので以下のように回答しました。
国民教育に責任のある初等中等教育が主体的で対話的で深い思考を育てたいと思うのは当然だと思う。しかし、全ての子どもがそれを出来るようになるとは考えられない。でも、そのままだったら一定数の子どもは不幸な人生を歩むことになってしまう。じゃあどうするか?つながりを全ての子どもに与えること、これが私の考えるアクティブ・ラーニング。もし、主体的で対話的で深い思考が出来が出来ず、主体的で対話的で深い思考が出来る人とつながりを生み出す能力が無くとも、主体的で対話的で深い思考が出来る人が多様な人とつながりを持つことが得だと分かれば全ての人はつながりの中で幸せになれる。つまり、高等教育局はエリート養成、初等中等局は普通の大人を養成しようとしている。私は個人を育てるのではなく、集団を育てたいと思っている。これはエリート養成にも、普通の大人の養成にも矛盾せず、それどころか有効だ。
■ [大事なこと]芸は身を助ける

私は三十歳代のころから歴代の学長のゴーストライターを務めてきました。具体的には文部科学省に提出する文章をつくりあげるのです。小さい大学だから起こったことでしょう。そのような文章をつくるためには、学長から色々な情報を得て、事務の人とも相談しなければなりません。自分で言うものなんですが、私は仕事が早いし要領がいい。だから歴代の学長から仕事が来ました。
ということで、文部科学省の通達や答申を読むことが一つの趣味みたいなものです。色々な文章を読んで、バラバラなものが繋がっていることを見いだすのが、推理小説を読んでいるように面白いのです。ただし、推理小説と違って犯人は一人ではありません。
文部科学省の役人という役人は一人もいません。初等中等局の役人という役人もいません。各種審議会の委員という委員は一人もいません。一人一人は違った思いを持ちながら全体の意を体現しています。そもそも正しい「犯人」はいないのです。だから、私がやっているのは犯人を捜すというより、バラバラなパーツをもとに最後の結末(つまり犯人は誰だ)を書き足すみたいなものです。それがとてもチャーミングだとワクワクしてくるのです。
ふと気づきました。
最近、私の講演の能力、本を執筆する能力、学内政治の能力は別々で多くは相反すると書きました。しかし、考えてみれば最近の私の講演と本は上記の能力に基づいていることに気づきました。芸は身を助けるです。
私のようなゴーストライター的な役割を若いうちからやるということは大きな大学ではまずあり得ないことです。そして、そのような知識を管理職や委員になってから得た人の場合は、本や講演で話すことは出来ません。また、そのような管理職や委員になろうと狙っている人ならば、そんなことを話すことはないでしょう。つまり、私のように若い頃から歴代の学長から指導を受け、かつ、管理職や委員になる気のない人はものすごく希です。考えてみれば、ものすごい強みです。
■ [大事なこと]迷走

東京大学は進学後に志望学部が決まります。以下の記事によると、その傾向が様変わりしているようです(http://www.todaishimbun.org/singaku20160712/)。これに関して、詳細なデータを持っていません。だから、素人の感覚的な想像なのですが、「迷走」と感じます。
「東京大学に進学すればバラ色の未来が約束される」と子ども達は信じ込まされ、色々なものを犠牲にして勉強した子はかなりいると思います。私の時代だったら、「末は博士か大臣か」の時代ではないですが、かなりのところに就職出来て、金銭的に豊かな生活が保障されたと思います。ところが、そうではない例外事例が、例外事例では無くなりつつあります。それを肌で東大生は感じているのではないでしょうか?
必死になって「当たり」を探しています。ところが、「当たり」がないので迷走しているように思います。東京大学の法学部はバラ色ではないと学生は気づいています。ところが、東京大学の教員はバラ色であることを前提とした強気の立場を貫けば、優秀な学生を求める学部の草刈り場になるでしょう。しかし、学生が集まったところも、かつての「当たり」は期待出来ない。やがて東京大学はオールマイティの「当たり」ではないという事実にぶち当たります。
東京大学の学生は、勉強において最も効率の良い勉強を自ら生み出した人を多く含んでいます。彼らがこの時代の就職において、どんな戦略を見いだすのか楽しみです。最もスマートな高校生は海外に出たと言うことを考えると、それも期待出来ないのかもしれません。いずれにせよ、東大生のお手並み拝見、学びたいと思います。
追伸 いずれにせよ、資料にあるような急激な変化は、社会情勢の変化というより各学部の広報戦略の影響ではないかなとも想像します。