■ [大事なこと]一行
先の「普通免許状の授与を受けるために大学において修得することを必要とする最低単位数に係る科目の区分を統合するものとすること。」の解説です。
免許法において「教科および教職の科目」という分類はありました。しかし、「教科の科目」と「教職の科目」があったので、その意味するものは『「教科の科目」or「教職の科目」』という意味です。ところが、「教科の科目」と「教職の科目」がなくなったので、「教科および教職の科目」の意味するものは『「教科の科目」and「教職の科目」』という意味です。
これのもとになった答申(http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2016/01/13/1365896_01.pdf)を読めば、メインターゲットは教員養成系大学の教員の過半数を占める教科科目担当であることは明らかにです。
従って「普通免許状の授与を受けるために大学において修得することを必要とする最低単位数に係る科目の区分を統合するものとすること。」の意味は「教科の科目」は『「教科の科目」and「教職の科目」』になりなさいということです。
でも、これは30年以上前からずっと言われ続けてきたことです。「普通免許状の授与を受けるために大学において修得することを必要とする最低単位数に係る科目の区分を統合するものとすること。」で、どう変わるか?
教科科目担当者は知らないし、教職科目担当者の大多数は知らないですが、大学の学部の免許関連科目では、教職科目担当者は業績を出しますが、教科科目担当者は業績を出さなくてもいいのです。ところが教科科目が無くなったので、教科科目担当者は業績を出さなければならないことになります。もし、教科科目担当者が教職関連の業績を持たないならば学部の免許関連科目の担当になれないということを意味しています。
ただし、これは大学の紀要(つまりほぼフリーパス)に教科教育学の人との連名論文が一つぐらいあれば大丈夫です。
ところが、大学院の科目は審査が一段と厳しくなります。15回の講義内容を一つ一つ示し、それに対応する業績を示さなければならないのです。単純に数えると15の業績が必要です。ま、それほどは必要ないですが、4か5の教育論文が必要になります。
ま、オブニマス形式の授業をすれば乗り越えることが出来ますが、今までのような一人で一つの科目を担当することが出来なくなります。
と思うのですが、どこまでOKで、どこからアウトかは法で詳細を決めていない設置審査と課程審査で決まります。つまり、文科省の担当者が大学を潰さない程度で、大学の改革を促進する程度の厳しさを求めることになります。怖いのは設置審査のおおくくり化によって大学は使えない教員を解雇できる裁量権が広がったのです。
つまり、教科内容学という生き残り策に対してイエローカードからレッドカードに移行しつつあると思います。教員養成系だからこその教科専門の先生がおられることを知っています。その方々がその成果を書き物としての業績にまとめられることを勧めます。これを読まれている教科専門の方が生き残る可能性が高まることを願います。
追伸 学内の会議で教科専門の先生方が教育系の業績を上げることを勧める発言したところ、教科専門のある先生(私の好きな先生です)から「教育の論文は専門外の我々が書ける程度のものか!私の専門の論文は専門外の人は書けるようなものではない!」と一喝されました。教科と教科教育の中間領域を専門とする研究者は育っていません。だから、多様な出自の人が今から模索できるし、すべきだと思ったのですが、それ以上の発言は控えました。