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2013-11-17

[]確信 21:08 確信 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 確信 - 西川純のメモ 確信 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今年の6月20日に「取引」の段階に入ったと書きました(http://p.tl/0i_6)。今日、本格的に取引の段階に入ったと確信しました。「攻撃」の段階の人が、「こりゃまずいぞ」と気づき始めました。ポイントは、自分が攻撃している相手が、どれほどの広がりがあるかが分かってきたのだと思います。『学び合い』シンパ以外の中間層の動きが変わってきていることをアンテナの高い「攻撃」段階の人が感じ始めたのだと思います。

 全ての動きは『学び合い』のセオリー、経営学のセオリー通りです。セオリーを知るものの楽しみです。

[]分かって貰わねば 07:53 分かって貰わねば - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 分かって貰わねば - 西川純のメモ 分かって貰わねば - 西川純のメモ のブックマークコメント

 同志が『学び合い』を一般の人に発表したそうです(http://p.tl/66E3)。そこでの質問は典型的です。読むにつけ、根本的な意識改革が必要なんだろうなと思います。

・『学び合い』というのも一つの手法。『学び合い』であれ,一斉授業であれ,全員を理解させるということは根本。これを常に目指すことが教師の仕事。

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 『学び合い』は手法ではなく、「一人も見捨てない」という考え方。もし、一斉指導でそれが実現できるということを明らかにしてくれれば、私はすくに乗り換えます。でも、それは絶対に出来ないことは単純な算数の計算でも明らかです。「全員を理解させることは根本」という言葉を建前論ではなく、本気で願って欲しいな~

・場面によっては『学び合い』はとても有効。しかし,教師は教えるプロ。プロとしての手腕を授業で見せることも大切。

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 『学び合い』は手法ではなく、「一人も見捨てない」という考え方。子どもを見捨ててもいい場面なんかあり得ない。教師の仕事は「教える」ことではなく、「分からせる」こと。「わからせる」ために、教えなくても分からせられたとしたら、それはプロとしての手腕。一人の「教え」で知的障害が疑われる子どもと将来は東京大学に進学するかもしれない子どもが同居するクラスで、みんなが教えられると思っているのかな~・・・。

 『学び合い』が成立したクラスで、「先生、教科書、友達」の中で勉強で役立つものは何?と聞けば、友達がダントツの一位で、教科書は二位。でも、その子どもたちに「先生はいらない?」と聞けば、絶対に必要だと応えます。理由を聞けば、教師がいなければ各人のエゴが暴走し、支え合いが成立しなくなることを知っているのです。そう言わせる教師こそがプロだと思います。

・生徒にとって「同級生の方が先生よりも質問しやすい」というのは寂しい。生徒にとって先生の方が質問しやすいと思わせることも大切。

 「寂しい」????『学び合い』は手法ではなく、「一人も見捨てない」という考え方。自分が教えて分からせられるのと、自分が教えなくてもわからせられるのと、どちらの方が高度だろうか?柳生新陰流の奥義は「無刀取り」と言われます。

[]教科の能力 07:30 教科の能力 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教科の能力 - 西川純のメモ 教科の能力 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』に関して、「教科の専門能力はどうなっているのか?」と言われることがあります。その他、カリスマ性や話術や指導能力や・・・・。もちろん、教科の専門性や、カリスマ性や、話術や、指導能力や・・・が高い方がいいに決まっています。それは従来型であろうと、『学び合い』であろうと。でも、私はあえてそれを言いません。

 何故なら、それらがとても得がたいものであることを知っているからです。努力も必要でしょう。そして努力をしすぎると、家庭をおろそかにしてします。そして、あるレベル以上になると才能が決定し、努力をいくらしても達成しないことを知っています。

 日本中にはプロ野球選手やJリーガーになることを夢見て練習に励む子どもがどれほどいるでしょうか?でも、その中でそれを実現することが出来る子どもがどれほどいるか。さらに言えば、実現したとしても、充実した現役時代を過ごし、それによって生活を成り立たせられる人はさらに少ない。

 私は子どもを一人も見捨てたくありませんが、同時に教師も一人も見捨てたくない。だから圧倒的大多数の教師が実現できる入り口を提案しているのです。その入り口から入れば、ごく普通の教師もかなりましになります。そして、本人が願うならば教科の専門性や、カリスマ性や、話術や、指導能力を高めることは可能です(ただし、一人も見捨てないという軸をぶらさない限りは)。

 苦労した人には二種類います。「俺も苦労したんだから、お前も苦労しろ」という人と、「俺の苦労を、お前は苦労しなくていいよ」という人です。私は後者になりたい。

 以上のことが分かるためには、教師の仕事が何であるかが分かる必要があります。教科の知識・技能を伝えることが教師の仕事であると思っている人は、「何言っているんだ、プロだろ」と言いたくなるのは分かります。でも、教師は100万人いるんです。そんなにプロがいるわけありません。教師は単一の職業としては最大の職業なのです。その100万人にその種のプロを求めるのは無理だと思っています。

 でも、私は子どもの一生涯の幸せを保証するのが教師の仕事だと思っています。これは各人が家族を持ち、仲間を持てば実現できることだと思います。そこで必要なのは、教師自身が家庭を持ち、仲間を持つことだと思います。ごく普通の教師が教科の専門性を高めるために家庭をおろそかにしては駄目だと思っているのです。

 子どもにとって、大人のモデルは親と教師です。教師は幸せな、ゆとりある生活を見せる必要ががあると思っています。だから、私のような年代の人は、「俺も苦労したんだから、お前も苦労しろ」という世の圧力に対して、防波堤にならねばならないと思います。