私は高校教師の時、猫かわいがりした生徒を救えませんでした。救おうと思い、私なりに最善を尽くしました。しかし、若造一人が一人の人間を救うなんておこがましい。結局、捨て猫を拾って、ミルクを与えて、捨てられた元の場所に戻すしかありませんでした。
私の研究生活は、どうすれば良かったのだろう、この問いに対する応えを探す日々です。今は分かります。
まず、自分には他人を救う力が無いことを自覚すべきです。それは能力不足、努力不足ではなく、無理なのです。10秒間空中浮揚するぐらい、無理。
でも、救いたい。どうすればいいか、一人で背負うのではなく、みんなで背負う。背負いたくないときは背負わなくていい。でも、背負えるときには背負えばいい。そうすれば、自分がきつくなったら背負ってくれる。
これが『学び合い』の学校観のコアです。
これを理解してから、楽です。ゼミ生との間合いも楽です。
とても悲しいニュースが流れてきました(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200209-00000038-kyodonews-soci&fbclid=IwAR2xSqfwp_3WbAqg5Z2ikA1IMmpSF6GBeoVCrG5KxtC4SqH-NpP6695PS88)。
しかし、『学び合い』の作法として、個人の問題には立ち入りません。分かりませんから。しかし、その人と関わる人たちの問題は分かります。しかし、その問題の原因は、その人たちを取り囲む人たちの問題なのです。しかし、その原因は・・・・・
ようは、関係で分析するのです。私は教え子を救えなかった。その罪は一生涯背負います。でも、自己憐憫ではなく、そのようなことが起こらぬ大きな枠組みを作りたい。それが私にとっての贖罪です。