お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

つくば

 昨日は東京に出張です。効率よく終わらせて、本日は移動日です。

 昨日、息子が筑波大学に一緒に行きたいと言い出しました。私は「私にとっては思い出の地だけど、お前には意味ないところだよ」と言ったのですが、生きたいとのことです。昨日泊まったところは近くなので、急遽、一緒に行くことになりました。

 筑波大学にいたのは1時間強くらいですね。隙間時間です。

 修了して40年弱、以前、OB会で行ったのも10年ぐらい前です。見える景色は全く違います。しかし、所々に思い出すところがあります。3カ所、ビックリしました。

 学生宿舎を出て、学部2年から7年間の下宿は、大字と字がつくところです。思い出し思い出し、行くと「ありました」。ビックリしました。しかし、古くてぼろくなっています。私のいた部屋は、空き家でした。しかし、残っていたことにビックリです。

 次に文系修士棟にいきました。私の時代は鍵をかけていませんでしたが、施錠されて中には入れません。ビックリしたのは2つです。私は入学当初はマレーシアの理科教育を研究しようとしました。実際は日本では情報不足から修士論文にまとめられないと断念し、概念研究に移行しました。しかし、1年生の当初に、私の机の上の天井にマレーシアのでっかい地図を貼っていたのです。ドアの窓から見ると、なんとそれがまだ張ってあるのです。おそらく、私が修了してから40年間の院生さんは、何故、天井にマレーシアの地図が張っているのだろう?と思っていたと思います。

 もう一つは、院生さんの数です。私の頃は20人から30人の院生さんが所属していました。しかし、ドアに張ってあった机の配置図によると十数人程度です。教科領域の衰退は全国的なのかもしれません。残念です。

 次に息子が私のひいきにしていた飲み屋である灯禾軒(とうかけん)を見たいと言いました。私は「絶対になくなっている」と言ったのですが、息子は行きたいそうです。行ってみるとなんとありました。それも、隣の寿司屋のスペースまで広がっていたのです。当時のお上さんは三十代後半から四十代前半当たりの方でした。40年たったのですから七十代後半以降だと思います。もちろん鬼籍に入る年ではないですが、引退する年です。お上さんはご健在なのか、代替わりしたのか知りたいところです。

 次に学生宿舎を見に行きました。私のいた追越(おっこし)24棟は女子棟になっているのは知っていました。ビックリしたのは共同浴場と食堂は閉鎖されていたのです。学生さんはどうやって生活しているのか興味があります。

 もし、筑波大学出身者で灯禾軒や学生宿舎の事情をご存じの方がいたら教えて下さい。

 大学の周りには筑波大学の学生さんがいます。みんな可愛い顔をしています。当時の私はあんな顔していたんだなと感じました。学生さんの顔は上越教育大学で見慣れているのに、何故か強く感じました。

 1時間ちょっとの駆け足でしたが、充実していました。息子も満足したようです。ゼミ生が私に興味を持つように、息子も私に興味を持っているのかもしれません。