今日も楽しく家内と晩酌しました。
が、むかむかしました。
息子が小学校の時、他の子どもの帽子を外に投げたそうです。そこで、家内が学校に呼ばれ、投げられた子どもの保護者に謝ることを求められたそうです。丁寧に、電話番号を手渡されたそうです。家内は、担任の先生がそういうのだからということで、電話で謝罪したそうです。相手の保護者は謝罪を受けたそうです。
ま、ここまでだったら、ハッピーエンドかもしれません。
しかし、家に帰って息子に聞いたら、陰湿なイジメ(本人はそう思っていないレベルですが)が続いたので、ことに及んだそうです。
ムカムカしました。
家内は、モヤモヤしていますが、私は言語化します。
この担任の誤りは2つのレベルです。
第一は、教師が裁定者になっていることです。どんな対立もどちらにも理があることを理解せず、一方に理があると思っているのでしょう。ま、単純で、楽だから。でも、両方に両方に理があると理解したならば、判断はしないでしょう。両者が健全に事実関係を確認することを続けるでしょう。
小学校の『学び合い』の初期段階、喧嘩が起こる場合があります。いままで、関わらなかったのですが、関わり始めれば、行き違いがあるのは当然です。さて、どうするか?これは私の本にも書いている対応です。
問題があったとします。そうしたら、二人を一室に座らせます。その子は、以下のように言います。
何かあったかを聞くよ。ただし、一方が話しているときは黙ってね。
一方が言い始めます。でも、他方が、反論しようとすると、「ちょっと待って、直ぐに聞くから」と言って止めます。おそらく、罵詈雑言でかたるでしょう。その中で、事実の読みを抽出し、それを語り、「と言っているけど。どうなの?」と言います。あとは、これを繰り返します。そうやれば、基本的に馬鹿馬鹿しいことが原因であることが分かります。
さて、『学び合い』だったら、どうちがうか?
一番の違いは、上記の会話をみんなの前でやるのです。そうすれば、必ず近づいてくることどもはいます。そうなったら「どう思う?」と水を向ければ語り始めるでしょう。あとは、周りの子ども達及び当事者の会話に誘うのです。
教師は本質的解決は出来ません。
『学び合い』のセオリーです。教師はその子、その事を変える力はありません。しかし、その子、その事を変える力を持つ集団を創れます。
我が子の担任は、このことは分からなかったのでしょう。そもそも、それを教えてくれる教師・先輩に恵まれなかったのでしょう。これは『学び合い』のセオリーですが、学級経営の出来る教師だったら、分かっていることです。