若い頃と今を比べると、欲しいものが本当に変わったと思います。
幸い五体満足に生まれ、子どもを愛する家庭の中で育った。それだけでもありがたいことだと思っている。しかし、若い頃の私は欲望の塊だったように思います。
例えば容姿を含む身体的スペックに関して、もっともっと切望し、望むものとの乖離から劣等感にさいなまれた。ところが年をとれば、その価値を失います。第一、容姿や身体的スペックは一定レベルはあればあったでいいですが、それを超えたスペックは若い頃に思っていたほど決定的ではないことを知っています。
それに対して、健康に対する欲望は高まります。若い頃の健康は空気のように当たり前で、無料だと思っていました。
物欲もそうです。若い頃には欲しいものの一覧票が延々とありました。それがため、金さえあればという気持ちは強かったと思います。ところが今は、「何がほしい」と聞かれても特段切望するものはありません。欲しいものはなくなっているわけではないのですが、「既に持っているもの」、「買おうとしたらいつでも買えるが、そんなものより金融資産として持っていた方がいいレベルのもの」、「若い頃はほしいと思っていたけど、今は馬鹿馬鹿しいと思っているもの」の3つが残り、「必要性があり、かつ、それを得るための金がないもの」が無くなってしまったのです。その代わりに年をとってから強くなったのは、上記の状態を嫌な仕事をせずに成り立たせるための経済的自由、それを成り立たせるための年金・金融資産の維持・向上を願っています。
上記を改めて書いてみると、年をとると見た目には淡泊になりましたが、その実、恐ろしいほど貪欲になったと思います。しかし、貪欲になったから、私の行動指針がぶれなくなったのだと思います。
若いゼミ生から「教員採用試験の勉強に集中できない、どうしたら勉強を続けられるようになるのか」と聞かれると以下のように答えます。
『お前が勉強を続けられないのは、採用されることを強く望んでいないからだよ。別の言い方で言えば、試験に落ちたらどうなるかを恐れていないからだ。私はハッキリとした望みがあった。だから、高校受験も、大学受験も、大学院受験も、教員採用試験も願書は1通しか貰わなかった。冷静に考えると恐ろしいことだ。でも、それだけ私は望んだ。それ故に、それを失敗したらどうなるかを恐れた。大学受験勉強の時は、毎晩、寝るときに天井を見て「あれが岩で、今、それが落ちてきたら苦しまずに死ねるよな」と思いながら過ごしてきた。こんな状態で勉強しないなんて恐ろしくて出来なかったよ。合格した後の未来を妄想しなさい。それ以上に、不合格だった未来を恐れなさい。』
退職した今は、私がいつ死んでも家族の経済的自由を守れる状態にしました。それが成り立たなかった年齢の時に比べて業火のような切迫感はありません。しかし、今の状態を一日でも長く続けたいし、妻と息子の経済的自由を高めたい。この欲望は、死ぬまで続くでしょう。
追伸 私は毎日1時間以上早歩きのウオーキングをしています。その中では様々なことを考えますが、必ず考えるテーマは最近に起こったことと投資戦略の再検討です。ま、いくら考えても今の戦略のままでいい、という結論になりますが、それを続けることによって軸がぶれない。チャンスという映画に老投資家が体中チューブにつながれた状態で株価のチャートを見ている姿を見て狂気を感じました。しかし、あれは儲けようと貪欲になっているのではなく、生活の一部になっているのだと今は分かります。