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2001-04-16

[]ピアジェの功罪(S先生コメントに応えて) 22:26 ピアジェの功罪(S先生のコメントに応えて) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ピアジェの功罪(S先生のコメントに応えて) - 西川純のメモ ピアジェの功罪(S先生のコメントに応えて) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 宮城県のS先生から西川研究室ホームページの「メモ」の「我が子は天才児?」を読んだ感想として、「ピアジェのいっていたことが誤りであろうと,書いてあるのを見て,自分もかねてからそう思っていたので,ああそうなんだと思いました。しかし,それを実証するには,きちんとしたデータを取っているわけではないので,難しいなあと思っていました。」というコメントをいただきました。このあたりのことを補足のためメモを書きました。

 最初に強調したいのは、ピアジェ理論は全て否定されているわけではないことです。人間が主体的に知識・能力を高めていくという彼の基本理論は未だに健在です。彼が活躍した時代は、物理学の方法論を人間研究に単純に適用しようとした心理学研究(例えば条件反射理論など)が真っ盛りの中でした。その時代の中で、人間主体性や複雑性を前提にした研究を進めた点は、心理学研究史の中で特筆すべきものです。現在認識論の多くは、そのルーツをたぐればピアジェにつながるといって過言ではないと思います。

 しかし、少なくとも我々が学んだピアジェ理論は、現在はありません。ピアジェ理論問題点は、文脈依存性(もしくは領域固有性)を考慮していなかった点です。簡単に言いますと、ピアジェ理論では、どんな状況でも使える能力が一般的であると考えていました。しかし、現在では、我々の能力は、おかれた状況に強く関係することが知られています。

 計算能力を例に、具体的に説明しましょう。小学校以来、我々は計算を勉強します。1桁の足し算、二桁の足し算、引き算、かけ算、わり算を算数で勉強します。ある子どもが20+32を52と計算できたならば、それはお金の計算(20円+32円)でも、長さの計算(20cm+32cm)でも、計算の内容に関わらず計算できると考えがちです。それは、計算能力という一般的な能力があると考えているからです。ところが、実際はそうではありません。

 私がやった実験ですが、同じ計算問題を、数学理科社会の問題に置き換えて同じ子どもに解かせてみました。その結果数学では計算できるのにも関わらず、理科社会では計算できない子どもが少なからずいました。また、ブラジルの市場でものを売っている子どもに関して、おもしろい報告があります。その報告によれば、それらの子ども学校に行っていないので、数学の計算は出来ません。ところが、その子どもは、自分自身が普段売っている物の代金の計算は、極めて速く・正確に出来るそうです。つまり、世の中には「数学の時間の計算能力」、「理科の時間の計算能力」、「社会の時間の計算能力」、「市場での計算能力」・・・という別々な能力があるわけです。このような現象を、文脈依存性(もしくは領域固有性)と呼びます。認知心理学では、多くの知識・能力の文脈依存性を調査しました。その結果現在では知識・能力は一般的に文脈依存性をもつことが明らかになっています。

 ピアジェはこの文脈依存性を考慮していませんでした。そのため、ピアジェ実験した状況で子どもが課題を解けない場合、それに関する能力は無いと判断しました。ところが、1960年代以降、ピアジェ理論では出来ないはずの子どもが、楽々と課題を達成することが明らかになりました。方法は簡単です。ピアジェ学派の人たちがやっていた実験(統制された実験室的実験)を、子ども達が普段やっている状況に近い状態で課題を解かせたんです。今では、ピアジェの発達段階で指標となる様々な能力(例えば保存性や脱自己中心性)などは、極めて早い段階から持っていると考えられています。

 ピアジェ理論問題点はもう一つあるように感じています。それは、ピアジェ責任ではなく、教育関係者責任です。ピアジェ自身は、自分の理論教育に簡単に適用できないと考え、注意深く教育と自身の発達理論を分けていました。ところが、カリキュラム改革(私の小・中・高校時代の指導要領にも影響を与えています)の際、その指導理論としてピアジェ理論が採用されました。ただし、採用されたこと自体が問題なのではなく、教育関係者ピアジェ理論の使い方に問題があったように感じます。教育関係者ピアジェの発達段階説を利用する際、多くは「これこれだから、この段階の子どもには分からない」という使い方でした(かくいう私自身もその一人です)。つまり、「教えられない、分からせられない」ことに対する免罪符として、ピアジェ理論を使っていたように感じます。

 教育に必要な理論は、出来ない理由を明らかにする理論ではなく、出来る方策を示す理論であるべきだと思います。少なくとも、「出来るかもしれない」と教師に夢を与える理論でなければならないと思います。