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2002-09-30

[]使用上の注意(27禁) 21:58 使用上の注意(27禁) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 使用上の注意(27禁) - 西川純のメモ 使用上の注意(27禁) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 来年度中には新しい本を出したいと思います。内容はこの2年間の成果をまとめようと思います。そのなかで「使用上の注意」という1節を設けたいと思います。以下は、その下書きです。

 本書をお読みになっている方の多くは、「面白いけど、本当かな~」と思われていると予想される。しかし、その中には「試しにやってみよう!」とお考えの方もいらっしゃると思う(本書は、まさに、そのような人のために書いた)。でも、ちょっとお待ちください。

 我々の研究室の全体ゼミでは、我々の研究室の本が、若い先生に読まれたとき、どうなるかということが話題になることがある。ある院生さん(中学校教諭)からは、「あの本を若い先生が読めば、混乱する」と言われた。また別な院生さん(中学校教諭)からは、「あやまって学び合いを行い、失敗して、学び合いは有効ではないという誤った考えを持ってしまうのではないか?」と言われた。さもありなんと思う。

 我々の考え方で間違われやすいのは、「任せる」という本当の意味である。別の全体ゼミの時にも「任せる」に関して議論があった。ある院生さん(小学校教諭)は、「若い頃、ベテラン先生から、子どもに任せてみろって言われるけど、あれ、こまっちゃんだよな」と発言されていたが、自分の新規採用の当時を思い出すと、さもありなんと思う。そうすると、いままで静かにしていた別な院生さん(中学校教諭)が急にニコニコしながら、「先生の本を誤って理解し、間違った任せ方をして大変になったクラスがあるんじゃないですか~」と筆者に言いった。筆者は、「そんなことはないよ。我々の本を読んでも、直ぐに納得する人って少ないんじゃない。面白いけど、本当かな~。」と思う人が大多数じゃない。(実際、講演会での反応の殆どは、そうである。)「その中の何人かの先生が、出来る範囲内でちょっと試した見ようかな、と思うんじゃない。本でも書いたけど、5分程度の話し合いの時間を設けることは、あまり無理はないし、失敗も少ないと思うよ。そんなことを少しずつ積み上げていくならば、間違った「任せ方」はしないと思うよ。」と応えた。しかし、その院生さんは一層ニコニコしながら、「本を読もうとする先生は、きっと何かの悩みがある先生ですよ。読んで、そうかということで、いきなり間違った任せ方をさせてしまうことは十分あり得ますよ。どうします?(一層、ニコニコ)」と言われた。そうすると別な院生さん(小学校教諭)も、「そうだよな~、ぼくも西川先生の「なぜ理科は難しいと言われるのか」を本屋で見つけて読んだのが大学院に来たきっかけだし」と言い、全員でニタニタ筆者の方を見る。筆者の方は、そんなバカなと思いながら、涙を流しながら、げたげた笑い転げてしまった。

 自分のことを思い出してもそうであった。新任の先生の場合、とにかく明日の時間に、子どもたちの前に立てることだけにきゅうきゅうとしている。とにかく、毎日毎日数時間の教案を考え出さなければならないのであるから当然である。結果として、「その背景となる考え方」なんてどうでもよく、とにかくすぐ使えるノウハウに走りがちである。しかし、何年かたつうちに、教材の知識がつく。その頃になると、詳細な板書計画が必要がなくなり、話の骨格がたてられれば授業が出来る。結果として、視線が教案から子どもたちに行く。また、クラス作りが出来ると、授業全部を自分の主導で進める(つまり、1時間先生が話し続ける)のではなく、子どもの自由な発想を引き出し、それを楽しめるようになる。我々の研究室研究は、そのようなレベルに達した先生に、分かる研究である。ゼミ院生さんには、「皆さんが、うちの研究室を選んだのは、うちの研究室の成果を「ああ、あれだな」と感じられる経験を持っているからだと思います。同時に、教材やテクニックの有効性は理解しつつも、それの限界を感じているからだと思います。」と語ることがある。

 前著にも書いたが、院生さんたちの指摘は十分理解しているが、ノウハウ的に書くことはしたくないと思っている。例えば、「自己モニター」実施の方法を細かく指定し、注意すべきポイントを詳細に書くことも出来る。そうすれば、成功する確率はかなり高くなる。しかし、そのようなことは書かずに、「自己モニター」の背景になる、「子どもを信じる」という考え方を理解してもらうことに力点を置きたい。何故なら、ノウハウ的に書けば成功できるが、でも、いつまでも自立できない状態のままである。さらに、我々が気づきもしない方向に発展させる芽を摘んでしまう。西川研究室院生さんの私宛のメールにこんな部分がある。

 『昨年の現場研究で「教える」ことをやめたら子供達のすごさに出会うことができた。そしてそれをじっくり見つめる時間ができたからたくさん感謝・感激することができたのです。決して私の狙った通りに動いたことをほめたのではありません。むしろそれ以上のことを連発する姿に感動したのです。』

 我々の研究室も、上記のようでありたいと願っている。

 しかし、院生さんたちの指摘も確かである。テクニック的にとらえ、失敗し、誤った解釈をすることの危険性は重大である。そうなると、本に「経験5年以下の先生はみちゃだめ(27禁)」とでも書こうかな、と思う。しかし、自分の思春期の経験から考えて、「みちゃだめ」というものほど魅力的である。更に、経験年数で判断するのも単略的にすぎる。例えば、ある院生さんは経験年数は5年程度であるが、西川研究室希望大学院に入学した方もいらっしゃる。また、ある院生さんは、「経験10年、20年でも、全く気づかない先生もいるんだよね」と言っていた。さもありなん、と思う。

 そこで、ノウハウ的に走らない程度の使用上の注意を書こうと考えた。

 我々の研究室の考えを誤ってとらえる方のパターンとして、「放任」と混同してしまう場合がある。これに関しては見分け方は簡単である。本当は、もっと本質的な違いがあるが、どんな先生にも分かりやすい違いとしては、「成績」が下がるか、否かに着目すればよい。ちょっと目には放任クラスと見間違う姿であっても、学び合いが成立しているとき、学習は完全に成立しているので成績は上る。十歩さがっても、成績が下がることはない。

 しかし、我々の考えを誤解し、放任状態になってしまうという失敗になることは希であろう。何故なら、健全な先生日本の圧倒的大多数の常識を持った先生方)ならば、放任状態になる以前に、誤った方法をやり続けることを止めるかである。

 もっとも多い「学び合い」の失敗例は、既存の考え方に囚われ、任せきれずに途中であきらめてしまうという例である。学び合いの実践をしても、直ぐには結果は出ない。何故なら、既存の考えに囚われているのは教師ばかりではなく、子どもたちも囚われているからである。ただし、教師とは異なり、子どもたちは比較的短期間でその囚われから脱出できる(たいていは2、3週間)。しかし、教師はそれを待てない。そのため、子どもたちが自主的に動き出す前に、その芽を摘んでしまう。教師にとって、「見た目の失敗」の裏に何かがあると信じることは、相当に大変なことである。他ならない西川研究室に所属する修士1年の方も例外ではない。

 例えば、ある院生さんの最初の実践研究修士1年時)の時に私宛に出したメールにこんなものがある。

『調査しているクラスでは、「あなた方を信頼している」「教師は答を言わない」「立ち歩いていいよ」など西川研究室での約束を最初から示しました。他方、流水実験だけのクラスは1時間で流水実験を仕上げてほしいとの願いのために 徹底的に実験において注目する点、実験を成功させるための方法をプリントで示し、説明してから実験を行いました。

 方法を示したクラスでは私の視点は、方法をきちんと守っているか、実験が順調に進んでいるか、時間内に実験が終わるかなど細かいところに目が行きます。子供たちを見ていても気がきではありません。つい方法についてしゃべってしまします。もちろん担任は、私の動きや指示に物足りなさを感じたのかこうしたらよいと助言していました。子供たちは、分からないことをどうしたらいいか教師に聞いてくることが多いです。

 調査しているクラスでは、教師に聞くことはありません。自分たちで進めます。予定では流水実験教科書で2時間扱っています。大学院に来る前なら、2時間つづきの特別授業を組んで実施したはずです。(1時間目のことを振り返ることできない)しかし、調査では、1時間づつの通常の授業を行いました。流水実験1時間めは子どもたちは、私が目的を語ったつもりでも何を調べたいか話し合わずに実験を開始しました。流水実験1時間はプランター(理科室で実験を行うために使った)に水を流して水びたし、水のはたらきなど何も分からない様子。ここでも私は、「大丈夫、子どもを信じる。」「方法は子供たちが見つけるもの、教師が直接指導しない」と心の中で繰り返しました。(かなりつらい)子供たちも何のために実験だったか、結果もまとめることなく時間が終わりました。こうなると今までの私なら「子供たちに実験をさせてもだめだ、教師が方法を教えないとと」となります。しかし、今回はそうしません。流水実験2時間目の授業の始めに付け加えていったことは、「前の実験を思い出してごらん、水の何のはたらきに気付いたの、何を確かめようとしてたの。何を見て、何を読んで実験をしたらよいか考え、実験のやり方が決まったところから実験をしてください」です。子どもたちは、自分を振り返り授業が進みました。』

 この院生さんの場合は2回目の授業の段階で、ある程度の手がかりを得ている。しかし、一般には2、3週間はかかる。ある院生さんの研究テーマは、教師が教えないときに起こる子どもたちの学び」であった。その院生さんは、もともとは徹底的に教え込むタイプの実践を行っていた。しかし、西川研究室入り、「ちょっと信じられないけど、できたら面白い」ということで、教師がしゃしゃり出ない授業をテーマにした。実践研究をやって2週間後に大学に戻って研究報告を行った。完全に憔悴しきっていた。筆者と会うなり、「先生(筆者)、駄目です。やはり教師が教えなければ進みません。」と言われた。しかし、「歴代の院生さん(現職者)も同様でした。あと2週間待ってください。とにかく、私を信じて、子どもは有能であるということを信じてください。もし、私が信じられないとしても、歴代の現職院生さんの成果を信じてください。」と実践研究校に送り出しました。2週間後(すなわち実践開始から4週間後)に大学に戻ったときは、一変していた。表情は晴れ晴れとしていた。それ以上に、しゃべるなと行ったとしても、ベラベラと子どもたちの生き生きとした姿を、生き生きと語ってくれました。

 実際、我々の研究室の考え方(子どもは有能であるという考え方)、方法(例えば自己モニター)を伝えて実践してもらい、それを観察する場合がある。その中には、必ずしも学び合いが成立していない場合がある。いずれも、方法を上っ面をなぞっているが、考え方を理解していないため、直ぐに教師がしゃしゃり出てしまう姿が、そこかしこに見らる。例えば、子どもたち同士が話し合おうとしているときに、教師がその会話に介入する。その結果、その教師がいる間は、それなりに会話は成立しているが、その先生がいなくなったとたんに、その班は「しら~っ」となってしまう。以上の場合が、「学び合い」が失敗する最大の原因である。

 第二の失敗の原因は、子どもが何をすべきなのか分からない、という状態である。これは、ある程度、学び合いの実践をした人の場合に起こることがある。子どもはやる気があるが、何を目的としているか分からず右往左往してしまう。ただし、一般的に多いのは、むしろ、事細かに指示しすぎて、子どもが考える余地を無くしているという、第一の失敗の原因の方が圧倒的に多い。

 第三の失敗の原因は、子どもたちに十分な手段、情報を提供しない場合である。何も無しで「発見せよ」なんて無理に決まっています。しかし、大抵の場合は教科書があれば十分である。何故なら、数頁めくれば答えが書いてあるのが通例である(例えば理科)。要は、数頁先の記述が分かるか否かである。しかし、教師が教える前から分かる子どもはいる。分からない子が、その子に聞ける環境さえあれば十分である。強いて言えば、ドリルの場合、その解答を教えないと答え合わせが出来ない場合がある。その場合は、解答をプリントで与えればよい。また、発展的な課題の場合、自由に図書館に行くことを認める方が望ましい。

 ではどうしたらいいかといえば、「子どもが有能だ」と信じることである。どれぐらい有能だと考えるかと言えば、自分(即ち教師)と同じぐらい有能だと信じる。それが出来れば、自分が教師としてやりやすい環境とは何か、また、そのために管理職校長)が何をすべきか、と自信に置き換えて考えれば答えが出る。

 でも、これが出来るようで、出来ない。我々の研究室に所属される院生さんでも、本気で我々の研究室の目指していることを信じられるためには半年ぐらいかかる。本で読んでも、私が言っても、「本当かな?」と思うのが普通である。それを変えるためには、本当にそれを実践して成功している先生方集団(つまり西川研究室の面々)の中に入らなければ信じられない。しかし、本当に信じられるのは、自分がやって、手応えを感じられたときである。つまり「論より証拠」ということである。具体的には、今一歩信じられないが実践して、実際に分析を終えたときに、本当に信じられる。従って、半年ぐらいかかる。

 でも、西川研究室に所属しなければ本当に分からないかといえば、そうでもない。我々が主張していることは、心ある先生方の中には気づかれている方はいると思う。少なくとも、それに近い経験をされた方は、少なくないと思う。

 西川研究室卒業したMちゃん(学部卒)から「昨日のできごと」というメールが来た。書き出しは、「昨日、感激したことがあったので、先生メールを書かなきゃ!!!と思いました。」である。最初は、構内での研修の様子を紹介して、「昨日も講師の先生が来てくださって・・」と研修の様子を書いた。その後、以下の様に書いてあった。

 『昨日も講師の先生が来てくださって話をして下さいました。理科先生でした。その先生の授業様子をビデオでみせてもらい、話を聞きました。ビデオでの理科の授業の様子は、Kさん(注:西川研究室OB)の授業のように子どもたちが言いたいことを言い合い、聞き合っている様子をみてびっくりしました。その授業は10年ほど前にやった授業だときいてさらにびっくりしました。そして、その先生は、授業の様子をテープレコーダーに録音してあとで聴き直し、自分の授業の悪さを確認したり、子どもたちが何を話しているのかを聞いて、そのプロトコルを起こし理科通信というプリントを発行し、その中に子どもたちの言葉を載せていたそうです。自分が話をするよりも子どもたちが話した方が子どもは良く聞くというのがわかったので、それからはでしゃばらないようにしたと話されていました。ゼミ(注 つまり昨年まで所属していた西川研究室)で、このような話し合いをする(できる)のは、普通だと思っていましたが学校で、しかも自分のこんな近くで、しかも10年以上も前に自己モニターを実践していた先生がいたことにびっくりし、感激しました。なぜ、そのような方法をしようとおもったのですか?と尋ねてみたら「風邪で声が出なくなったから、子どもに変わりに話してもらったら良く聞くことから、言いたいことはこどもに言わせるようにしようと思った。 テープで撮ろうと思ったのは、どんな授業をしているか解るために。それで、聞いてみたら、なんてつまらない授業なんだと気がついて恥ずかしかったよ。つまらないきっかけだけどね。」と話して下さいました。』 

 読み終わって「やっぱりね」と思った。本(実証的教育研究の技法)にも書いが、教育上の真理は分かってみればあたりまえのものである。今、この瞬間にも数百万人の「先生」がいる。明治学校教育制度が成立した時代に限っても、「先生」という職についた人の数は膨大である。その先生方の中で、心ある先生方が色々な試みをしているはずである。従って、正しいことを気づく人は少ない。我々は、今、正しいと信じるに足ることを明らかにしつつある。しかし、それが歴史上初めてだと主張するつもりはない。正しければ、正しけれほど、きっとだれかが気づいているはずである。逆に言えば、本当に歴史上初めてであるならば、それは本当は正しくないのかもしれない。ただ、それを気づけるには(もしくは経験するには)、少なくとも教案ではなく、子どもを見ることが出来るレベルに達しないと難しいと思う。そのため、「本書は経験5年以下の先生は見てはいけません(27禁)」とでも書くべきなのかもしれない。しかし、若い先生でも、ノウハウ本ではなく本書を手に取っている方は、さらに、ここまで読まれた方なら、その多くの障壁は越えているように思う。そのような方に一言。

 「毎日5分間程度の話し合いを継続的に続ける」、「自己モニターをやる」という前著「学び合う教室」レベルの実践でしたら、比較的失敗無く出来ると思う。出来れば、安いテープレコーダー(1台でも結構)を用意し、子どもたちの会話を記録し、聞くことは多くのことを教えてくれる。また、ビデオで自分自身の授業を1学期に1度でも記録し、それを視聴することは、子どもたちへの自己モニターと同様に有効である。また、固定カメラで、教室の後ろから子どもを写すと、違ったクラスが見える。形に囚われず、無理のない程度に、徐々にやれば良い。ただし、常に自分で判断して欲しい。しかし、その際、「子どもは愚かである」という既存の考え方から、「子どもは有能ではないか?」という問いかけを自身にして欲しい。

 我々はそれに、筆者は我々の考え方が、金科玉条のように扱われることを望んではいない。我々は「子どもは有能である」と主張しているが、同様に「教師は有能である」と信じている。その有能な教師に一つの考え方を伝え、その場その場の判断の一つの材料として欲しいと考えている。こんなエピソードがある。久しぶりに西川研究室OB(現職派遣)からメールが来た。内容は、現場での研究実践の様子であった。とても楽しく読ませてもらった。その最後に、次のような文章があった。

 『しかし、私は、教師が教えるべき内容があり、私語がうるさいと怒鳴ることもあり、ここは聞く時で書く時ではないと、わめき散らすことも多々あり、テストの平均点が低いと嘆くことあり、西川研の研究に背くことは多数行っております。しかし、授業中遊ばせてなんていない。勝手にやっている時間を生徒に与えているだけでその時間は勝手に課題を子供たちだけでやっているだけなんですけれど・・・・といいたいのだが。』

 それに対する筆者の返信は以下の通りである。

 『○さんが一番分かっていることじゃないですか。私自身が、言っていることと、やっていることが違うことを。でも、弁明しますが、その場その場の状況の中で、ベストだと思えることをしているつもりです。大学生相手ですから、「うるさい」と怒鳴ることはありません。しかし、ちょっと怖い顔をして、静かにするまでだまている、っていうようなテクニック等で静かにさせることはよくあります。我々のゼミの方針から言えば、指導教官は黙っているべきなのにもかかわらず、べらべらしゃべったり、ことこまかな指示を出すことがあります。ということで、私自身が「西川研の研究に背くことは多数行っております。」でも、私自身の中にある、歴代の院生さんから教えてもらった「西川研の研究」があるために、一定の歯止めがかかっているように思います。また、「西川研の研究」があるため、しゃしゃり出たくても出られない場が形成されています。

 私自身が、「教師が教えるべき内容があり、それは少なくない」と言ってしまったら、院生さんに新たな視点に立ってもらうことは出来なくなります。なんとなれば、「それじゃあ、いまのままでOKなんだ」となりかねません。だから、「教師は教えなくても良いんじゃないか?」という目標を「熱く(しつこく)」語る必要があると考えています。

 ということで、私としては「○さん」のようなOBベストの姿だと思っています。』 

 こんなんでどうかな~?

[]OBからのメール 21:58 OBからのメール - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - OBからのメール - 西川純のメモ OBからのメール - 西川純のメモ のブックマークコメント

 久しぶりに西川研究室OB(現職派遣)からメールが来ました。内容は、現場での研究実践の様子です。とても楽しく読ませてもらいました。その最後に、次のような文章がありました。

『しかし、私は、教師が教えるべき内容があり、私語がうるさいと怒鳴ることもあり、ここは聞く時で書く時ではないと、わめき散らすことも多々あり、テストの平均点が低いと嘆くことあり、西川研の研究に背くことは多数行っております。しかし、授業中遊ばせてなんていない。勝手にやっている時間を生徒に与えているだけでその時間は勝手に課題を子供たちだけでやっているだけなんですけれど・・・・といいたいのだが。』

 それに対する私の返信は以下の通りです。

『○さんが一番分かっていることじゃないですか。私自身が、言っていることと、やっていることが違うことを。でも、弁明しますが、その場その場の状況の中で、ベストだと思えることをしているつもりです。大学生相手ですから、「うるさい」と怒鳴ることはありません。しかし、ちょっと怖い顔をして、静かにするまでだまている、っていうようなテクニック等で静かにさせることはよくあります。我々のゼミの方針から言えば、指導教官は黙っているべきなのにもかかわらず、べらべらしゃべったり、ことこまかな指示を出すことがあります。ということで、私自身が「西川研の研究に背くことは多数行っております。」でも、私自身の中にある、歴代の院生さんから教えてもらった「西川研の研究」があるために、一定の歯止めがかかっているように思います。また、「西川研の研究」があるため、しゃしゃり出たくても出られない場が形成されています。

 私自身が、「教師が教えるべき内容があり、それは少なくない」と言ってしまったら、院生さんに新たな視点に立ってもらうことは出来なくなります。なんとなれば、「それじゃあ、いまのままでOKなんだ」となりかねません。だから、「教師は教えなくても良いんじゃないか?」という目標を「熱く(しつこく)」語る必要があると考えています。

 ということで、私としては「○さん」のようなOBベストの姿だと思っています。』

 剣道守破離という言葉あります。つまり、守-形を守る段階(初心)、破-形を破る段階(達人)、離-形を離れる段階(名人)の段階で進むという教えです。その中の最初は、形を守る段階です。いきなり破り、離れることは出来ません。でも、いつまでも守ってばかりでは駄目です。実は、「破り、離れた」成果を我々が吸収することによって、さらなる発展があります。したがって、「破離」のメールは大事です。

追伸 でも、優しい○さんのメールの大部分は「守」が占めていました。やっぱり、心細い大学教官としては、現職者からの勇気づけ「も」必要としています。