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2003-10-21

[]なわばり 21:59 なわばり - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - なわばり - 西川純のメモ なわばり - 西川純のメモ のブックマークコメント

 息子をつれて、駅や公園、そしてスーパーに遊びに行きます。その出発前にはトイレでおしっこをするのですが、駅、公園スーパーに止まるたびにトイレに行きたがります。そして、ほんのちょっとだけ小便をします。といっても、息子は神経質であるわけでもなく、小便が近いわけではありません。家にいるときは、こちらが促してもなかなか行かないぐらいです。

 犬は自分のなわばりに小便をかけ、臭いを付けます。息子の小便を見ると、それを思い出します。ちなみに、大学に行くと必ず自然棟1Fの男子トイレで小便をします。ということは、あそこは息子の「なわばり」のようです。

[]夢 21:59 夢 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 夢 - 西川純のメモ 夢 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 息子が最近はまっている絵本は「しゅっぱつしんこう」という絵本です。内容は、電車好きの男の子が、夢の中で、寝る前に枕元においておいた赤い電車を運転し、動物たちと海水浴に行くという内容です。比較的長い話なのですが、何度も読むようねだります。

 本日、息子は「つばさ山形新幹線)」のNゲージの模型おもちゃ箱から探し出し、ニコニコしながら枕元に置きました。そして、「つばさと遊ぶ~」とさかんに言います。言葉に出して説明しにくいのですが、息子は「夢」という楽しみを意識しているようです。

[]ムカデの三対目の足学会 21:59 ムカデの三対目の足学会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ムカデの三対目の足学会 - 西川純のメモ ムカデの三対目の足学会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昔ある本で読んだことです(原典がなんだか思い出せません)。私が大学院の2年の時のことですからだいぶ前で、定かではありません。しかし、その趣旨にそって語れば、以下のようになります。

 ある人がムカデの三対目の足に興味を持ちました。その人はムカデの三対目の足に関して研究(例えば、ムカデが歩くとき、三対目の足に関して、左足の方から動くか、右足の方から動くか)し始めます。その研究成果は自費出版などで発表します。最初は馬鹿にされますが、世の中には変わり者はいるものです。同好の人が集まり、会が発足し、同人誌が作られます。大学研究者も興味を持ち、その会に入会します。そのうち、会の同人誌も投稿規定などが決められ、査読も行われるようになり、学会の装いを持つようになり、「ムカデの三対目の足学会」が発足します。そのうち変わり者の金持ちが、大学寄付をして「ムカデの三対目の足」講座が開設され、その初代教授に、「ムカデの三対目の足」に興味を最初に示した変わり者の研究者が就任します。その教授の下、大学院生が「ムカデの三対目の足」に関する研究を行い「ムカデの三対目の足」学会誌に投稿します。その大学院生大学院を修了します。そのころになると、他の大学でも「ムカデの三対目の足」学に対して興味を持ち始め、その担当者を求めるようになります。そうなると、先の教授の下で研究した大学院生が他大学教官となります。そして、その教官の下で、多くの大学院生が「ムカデの三対目の足」に関する研究をすることになります。そうなると、もう、「ムカデの三対目の足」学の無い大学は二流大学レッテルを貼られかねない状況になります。

 以上は、その本に書かれていた寓話の趣旨です。その本では、バカバカしい話のようだが分子生物学、生化学の成り立ちは「ムカデの三対目学」と全く同じだとまとめていました。学問とは何か?歴史的、哲学的に考察すれば、それだけで一つの学問となるほどです。しかし、日本における学会を制度的に冷静に見れば、100人の人が10年ぐらい「学問だ!」と連呼し続ければ学問になるんです。学問とは何だろう・・、ふと考えてしまいました。

[]羅漢 21:59 羅漢 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 羅漢 - 西川純のメモ 羅漢 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 亀井勝一郎という人の本を高校の時に集中的に読みました。宗教に対して敬愛の念を持ちつつも、宗教にとって必須である神仏に対する絶対的な帰依を持つことが出来ず、そのことを自責する気持ちが作品のベースにあったように感じます。その気持ちが、当時の私にとってとても共感できるものでした。

 いわゆる仏様というのは悟りの最終段階に達した状態を指し、「如来」とよばれます。その直前の段階は「菩薩」とよばれます。だから、正確には観世音菩薩という名前の観音様は「仏様」ではありません。以降、一般のお坊さんである比丘、比丘尼まで様々な段階があります。 羅漢とは声聞(しょうもん:仏の教えを学ぶことで、煩悩から離れようとして修行する人。 )の最高位です。亀井勝一郎の本に、こんなことが書いてありました。

 羅漢は何かに没頭する姿の象徴である。羅漢の視野は狭く、如来の間は遠く離れている。しかし、羅漢のみが如来に至ることができる。

 大学院時代の私の毎日の様子は以下の通りです。朝10時頃、二日酔い状態で起床(毎晩、夜の10時半から夜中の2時まで院生仲間と飲んでいました)。10時半に大学院生控え室に到着し、直ちに研究を始める。以下、夜の10時半までずーっと机にかじりつきました。例外は昼休みと夕食とトイレぐらい(総計で1時間程度)。したがって、毎日、11時間は研究をしていることになります。そして、毎日1冊は厚手の本を読了することを、最低限のノルマとして課しました。それを1年のうち三百数十日は続けました。その結果大学院時代に読んだ本は数知れません。コメニウス、ペスロッチ等の本。ブルーナー、ガニエ、オーズベルピアジェ等の教育心理学東南アジアを中心とした諸外国教育史。日本教育史。プルーナーの教育評価論。コンピュータハードソフトの本。教育統計学の本。挙げていればきりがありませんが、少なくとも千には達していたと思われます。

 では、それによって何が得られたか?役に立ったものもあります。特に、コンピュータの知識や、教育統計の知識は、私の研究者としての業績の初期を成立させるものの基礎となっています。しかし、それは全体の研究時間の10%もありません。しかし、その直接役には立たなかった90%の時間を費やした文献によって、副次的に三つのことが分かりました。第一に、生かじりの知識をひけらす人(教官も含む)の浅薄さが見えるようになり、ビビらなくなりました。第二に、上記の本を「ありがたがらなく」なりました。第三に、それらの古典はありがたがる存在ではなく、便利な道具であることが、よ~く分かりました。でも、考えてみれば、この三つのことが今の研究生活に役立っているんだな~と感じます。自分と比較するのはおこがましいですが、苦しい修行を続けたお釈迦様が得られた最終的な結論が、「(そんな修行をしなくても)山川草木すべては仏になることができる(「山川草木悉有仏性」(さんせんそうもくしつうぶっしょう))」と悟られたようなものかもしれません。

 院生さん、学生さんは何時間研究をしているのでしょうか?私と同じ11時間とはいいません。その半分でもしているでしょうか?嬉しいことに、多くの院生さん、学生さんはそのレベルを超えていると信じています。全てをなげうち、集中する期間がないならば、研究で何かをなすことはけっしてありません。逆に言えば、一定期間、ある領域に集中して学ぶならば、直ぐに私と対等に話し、そして、私を凌駕出来るんです。私は院生さん、学生さんと話しながら、「すごいな~」と感じる瞬間、ウルウルし、それが何よりの楽しみです。しかし一方、「あれやっていました」、「これやっていました」、「これこれで出来ませんでした」という言い訳を、何度も、何度も聞かされると、「羅漢の話」を思い出します。そんな言い訳なら、「寝坊していました」のほうがず~っと良いように思います。