■ [う~ん]足ることを知れない
私が大学に勤めて17年たちます。しかし、この5年ぐらいから、仕事上で怒ることが多くなったように思います。もちろん、それ以前から怒ることがありました。特に、教科専門の中で心ない方が、教科教育研究を専攻する院生さんに対して、自身の間尺を押しつけ攻撃する場合、怒ります。しかし、その怒りはあまり長期に長引きません。ところが、現在は長引きますし、あとから、あとから怒りの種が沸いてきます。なんで、こんなに短気になったんだろうと自己分析しました。自身の年齢が上がり、職階もあがったため、我が儘になったと言うことは、まず認めます。でも、それだけではないように思います。
私が短気になり始めた時期と、私が大学の仕組みを分かるようになった時期は一致しているように思います。大学の勤めてから10年ぐらいは、大学のシステムが盤石で普遍のように思えました。そして、自分自身が何も出来ないちっぽけな存在であると感じていました。例えば、日本の政治に対して不満はあったとしても、一市民が出来ることは限りがあります。ルールを変えようと思うのではなく、現状のルールの中でゲームをしようとします。現状のルールは長い間定着しているので、そのルールの中での定石というべき生き方がだいたい決まっています。したがって、あまり頭を使わず、その定石の中で生きています。多少の不満があっても、それを解決できないだろうし、たいていの人はその中で生きているんだという安心から、不満は消失します。私の大学に勤めてから10年ぐらいは、そんな感じでした。
ところが、この5年間ぐらいから、多種多様な情報を知り得るようになります。そうすると、自分が不満に思っていることの原因が見えてきます。そして、その原因が極めてバカバカしい因習に根ざしていることが分かってしまいます。さらに、意外にも、その因習を支えているものに法的な根拠が無く、変えようと思えば、変えられるものであることに気づきます。
ところが、いざ、変えようとすると、なかなか変えられません。原因の第一は、今の状態に不満がない人が多いからです。今のシステムは、今の人にとって居心地が良いから安定しているんです。でも、注意すべきは、あくまでも「今」に過ぎません。今後はそのシステムが問題になるであろうということに気づいている人は少なくありません。ところが、その人たちの多くは、現在のシステムは変えられないほど盤石で、法的にがんじがらめに縛られていると思っているんです。その人たちに、現在のシステムを変えることは意外に簡単であることを説明することが、なかなか出来ません。「そんなバカな~、だって、そんなんだったら、とっくのと~に変えているはずじゃない」という意識が、理解を妨げます。それが理解されたとしても、次の障壁があります。それは、システムを変えれば、短期的には損する人が出ます。その人の反対と戦うエネルギーを持ち得ないんです。その理由は、第一の原因である、とりあえず不満がないからなんです。
不遜ながら、今の上越教育大学には二つの道があるように思います。一つは徐々に朽ち果て、他大学に吸収される道。もう一つは、教育研究の大学として日本(世界)でも有数の大学になる道。私は、それが歯がゆくて歯がゆくてしようがない。私が出来る範囲の行動をしますが、「今の状態に不満がない人(今の危機的状況を理解していない人)」、「今の状態が変えられると理解していない人」、「今の状態を変えるために戦おうとしない人」、そして、「今の状態を変えたくない人」との関わりの中でヘトヘトしなり、イライラしてしまいます。しかし、上記の私の理解は誤っているのかもしれません。結局、何も変えなくとも、なんとなく、それでも良いのかもしれません。仮に、私の現状分析が正しくとも、私がイライラしなくとも、他のもっと適任者がやるべきなのかもしれません(この可能性が高いと思います)。そうであるならば、かっての私のように、何も知らず、何も考えず、現状に関して満足していた方がよかったのかもしれません。でも、この5年間、もがいてもがいていたからこそ、学習臨床コースも立ち上がり、かつてに比べ格段の良い教育・研究環境を得ています。だから、まだ、もがこうと思います。
追伸 以前のメモに書いたとおり、私には「魔法の言葉」があります。家に帰り「家族仲良く、健康で」と神仏に祈ります。幸い、この究極の幸福を享受しています。そう考えると、仕事上のイライラがバカバカしくなります。