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2004-10-06

[]学び合う試験に関する三つの疑問 13:22 学び合う試験に関する三つの疑問 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学び合う試験に関する三つの疑問 - 西川純のメモ 学び合う試験に関する三つの疑問 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日は学部4年生の学年ゼミです。6人の学生さんとゼミをしました。実にレベルの高いゼミです。安心して、心地よく聞けました。その中で、Nちゃんの「学び合う試験」という卒業研究に関して3つの疑問が出ました。

 Nちゃんの研究は、試験も学び合わせようというものです。具体的には、試験の際、自分一人で解いても、分からないところを人に聞いて解いてもかまわない、ただし、人に聞いても分からなかったことは解答用紙に書かないようにしよう、というものです。学び合いの文化が成立しているならば、ズルしようとせず、その子の能力が測れることを明らかにする研究です。多くの人は「え~???」と思ったり、「無理だ~」という反応するでしょう。でも、それをくずがえすから、研究としてはとても面白いと思っています。さて、その際、三つの疑問が学生さんから出ました。それは、第一に、もし学び合わせた試験であった場合、学び合っている平常の授業と、どこが違うのか?という疑問です。第二には、なぜ、試験の際にまで学び合いをしようとするのか?という疑問です。第三は、学び合って解答した場合、一人で達成する喜びを感じられないのでは?という疑問です。本当でしたら、時間をかけて議論すれば学生さんが答えを出すでしょう、でも、本日は会議の時間が迫っていたので、私が介入してしまいました。でも、冷静に考えれば、教えたがりの性分が出てしまった結果だと反省しています。ごめんなさい。

 さて第一の疑問に関しては、結論から言えば、学び合う試験と、学び合う平常の授業とは、学ぶ点では全く同じです。違うのは、前者の場合は、各子どもの能力の評価が組織的に行えます。学び合う平常の授業では、大部分は学習に費やされてしまいます。しかし、45分の試験では、それらの多くを問題の解答に費やせます。結果として、平常の時間では出来ない、広範囲で、高度な問題を解かせることが出来ます。

 第二の疑問に関しては、「学び合い」はテクニックではなく、学校教育をどのように捉えるかという、学校観のレベルとして捉えると解決します。たしかに、我々のいっている学び合いを、バズ学習とかディベート学習とかのように、ある場面では使えて、別な場面では使えない、一つの授業方法と捉えるならば、それを試験にまで適用しなくてもいいはずです。しかし、我々は違います。我々は、学校教育の目標は、人と人との関わりを経験し、深めていく場であると考えています。従って、登下校、掃除、校庭での遊び、そして、日常の教科学習も、学校における全ての時間はそれを目標としていると考えています。であれば、なぜ、ことさら試験の際に、それをしてはいけないということはおかしいと考えるのは理の当然です。

 第三の疑問に関しては、次のようなたとえ話をしました。現状の一人一人が分断された試験においても、何らかの援助を得て解答しています。例えば、数学の問題を解く際、筆算をしてはいけないということを課したとします。それで解けた子は、「私は紙と鉛筆を使わずに出来た~!」と充実感に浸れるでしょうか?逆に、筆算しなければ解けなかった子は、「私は紙と鉛筆を使ってしか問題を解けない・・」と落ち込むでしょうか?ナンセンスなことです。このナンセンスさを分かった上で、「紙と鉛筆」を「友達」に代えてみれば、一人で解けなければ充実感が得られないということのナンセンスさが導かれます。なぜ、そのように感じるのか、それは、それまでの十数年間の学校教育で、テストは一人でやるものという刷り込みをされているからに過ぎません。「学び合う教室」の第1章でも書きましたが、人間の本当の能力は、他者の能力を借りることです。現実の社会において、他者の能力を借りてはいけない、という状態で当人の能力を測るなんて学校教育だけのことです。

 ちなみに学校教育においても、学び合う試験は既に行われています。例えば、美術の作品がそれにあたります。教室で子どもたちが作品を作っている時、子どもたちは他の子どもの作品を見ることが出来ます。分からないときには、聞くことも出来ます。そして、その結果として完成された作品によって成績がつきます。それで何ら問題ありません。であれば、何故それが問題なく行われているかを考えれば、「え~???」と思ったり、「無理だ~」という反応することのナンセンスさが分かると思います。

 と書いても、「でも」と思われる方もいるでしょう。その場合は、どうぞ、メールしてください。その疑問にお応えします(「お答え」ではありません)。紙面の関係で全てを書き切れませんが、学び合う試験に関する様々な疑問・反論に関して、ちゃんと回答出来るだけの研究の蓄積が我々にはあります。

追伸 Hくんへ。君が気にした達成感は、一人でやったか、他者の援助でやったかで決まるのではありません。重要なのは、その課題を主体的に解決したか、受動的に解決したかなんです。例えば、自らの課題として捉え、自らの判断で他者の援助を 受けて解決した場合、達成感を得られます。でも、人からやれといわれ何がなんだか意味が分からず課題を与えられ、一人でそれが解決したとしても、充実感が得られません。君の見ている子どもが不幸な理由は、それは援助者が常にいるからではないんです。その子が、何のために何をやっているかを理解せずにやっているところです。その子が、何のために何をやっているかを理解せずにやっているかは、「これでいいの?」と繰り返し援助者に 確認しているところでハッキリしています。 そして、本当に学習の主体者となっているならば、立ち歩くことによって特定の援助者以外の多様なクラスメートの援助を受けるはずです。今度の新刊書と、「静かに!をいわない授業」の第3章を読めば分かりますよ。

[]個人ゼミの前に 13:22 個人ゼミの前に - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 個人ゼミの前に - 西川純のメモ 個人ゼミの前に - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今、Hが個人ゼミに来ました。しかし、ものの数分で撃沈です。その様子を記載します。

 Hが自信なげに入室し、「これ(レポート)、何かしっくりしないんですよ~」と言う。

 私は「それを解決したければ、俺に聞くのではなく、学習者同士で解決しな。それがうちの研究室の考え方なんだから」と冷たく言う。そして、「俺がするのは、これじゃだめと言うだけだよ」と言う。注意ですが、ここまでの間(そして、最後まで)、一度も、Hのもってきたレポートをちらりとも見ていません。

 私は、ホームページの「感動」(02.3.22)を表示し、Hに読ませる。

 「お前が、たらんこたらんこ、俺の部屋に入った瞬間に、お前のレポートをちょっとも見ず帰そうという方針が決まったんだよ」と私はいいました。

 「ばらす」(04.2.10)を次に読ませ、「お前がしなければならないことは分かったよな、バイバイ」と手を振りました。

 私がどういうことをやるかは、全部、公開しています。教師の手の内をばらすことは、学習者を主体的にするために必須条件です。

 ただし、直ぐに補足します。「先生、駄目です~」と降参したならば、暖かく、優しく受け入れてあげますよ。うちの研究室の課題が、高度で、大変なのは、他の誰よりも私は知っています。降参したとしても恥じることは全くありません。そして、そういったときに、援助し、慰めるのは私の仕事です。と、手の内をさらします。ただし、「降参したふりの練習をして私を騙す」か、「もう一度、より多くのメンバーと一緒になって課題に立ち向かうか」の二つの内、後者の方がいいのは当たり前です。後者の方が生産的だし、なによりも自分が納得できます。 それに教師の力より、学習者集団の力の方が、ず~っと強いことは皆さんが一番分かっていることなんですから。

 でも、このことを再度書きます。安心して帰れる家庭のある子どもの方が、もっともっと逆境に耐えられますし、自分で解決できます。同じように、皆さんには、駄目なとき何とかする指導教師がいることを信じてください。それが出来るように、私は社会的にも学術的にも学内政治的にも頑張っているんですから。ね。